2013年10月

第⑨回資料収集(報告編/前編)

 
ここからは報告編。今回は前編です。。
 
 
 平成5(1993)年                                             .
 
 
まずは先日旧ブログで、県道312号(田谷藤沢)の未開通区間の絡みで話題に上がったあの路線。
 
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6月25日、鎌倉市の県道402号(阿久和鎌倉)の「関谷バイパス(都・由比ガ浜関谷線区間)」開通。
写真は区域変更の告示だが、同時に供用開始の告示も出ている。何で分けたんだろ・・・
 
 
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影取町-関谷ICが開通。同時に両サイドが新たに県道に編入(追加指定)された。
新旧比較表のうち、「新」が「3044m」と「104m」に別れているのは、、
 
 

 
横浜市側の区間が、鎌倉市の飛び地をちょうど通過している為だろう。
多分管理者は横浜市だろうが、区域自体は県所管の鎌倉市内なので告示したのだろう。
 
なお、この飛び地区間を除く横浜市側の区域(約1.3㎞)は当告示に含まれていない。
同日の横浜市の公報(市報)に載っているハズだが、まぁそっちは良いかなと。。
 
と言う訳で、今回の供用開始(開通・編入)区間は県側の3.1㎞と横浜市側の1.3㎞を合わせた4.4㎞と言う事になる。少し気になるのは、終点-山崎跨線橋北間が今回の告示に含まれていない事。
 
 
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※2度目
終点より南側、つまりマイナス方向に伸びるこの区間も見ての通り、
今回供用を始めた「関谷BP」のパーツのひとつだが、今回の告示には登場しなかった。
つまり当区間は、「支線」として既に402号に指定されていた事になるが、時期は不明。
 
そもそも何故この区間だけ先に指定されてたのかが分からん。
関谷IC-影取町間の開通まで、重複相手の県道302号(小袋谷藤沢)の単独で良かったんじゃ?
 
色々不思議である。そうそう「不思議」と言えば、、
 
 

 
実はすんごく気になっていた402号の厳密な終点、この場所である事が確定しました。
 
 
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管内図はホントの事言ってたんだね!!
 
 
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まぁコレは大ウソだけどね。。これだから管内図は信用ならん・・・
 
 
最も、何故大船駅前や戸部橋北詰と言ったキリの良い場所ではなく、こんな中途半な場所なのか
言った根本的な疑問は残ったままだが。そもそもこの路線に関しては、認定時期すら不明だ。。
 
件の昭和35(1960)年4月に阿久和大船線廃止/阿久和鎌倉線再認定の告示が出ており、
戦前なのは間違いない。そして当時の終点は、「岡本」ではなく柏尾川を挟んだ「台」。
 
当時は山崎跨線橋などなく、302号が同跨線橋をバイパスとする二重経路になる前、
つまり鎌倉踏切を渡るルートのみだった事を考えると、、
 
 

 
踏切北側のこの三差路だろう。
住居表示実施に伴う住所変更により今の地図では確認出来ないが、延長的に間違いない。
 
 
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阿久和大船線当時の昭和33(1958)年の全県図も、精度が悪いがそのように描いてある。
また現302号も、当時は踏切直後の戸部橋ではなく一本下流側の玉縄橋を渡っていたようだ。
 
 
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つまりこの道旧県道。。
 
 
なのは70年代の管内図を見て既に把握済みだが(写真は玉縄橋南詰より大船駅方面)。
因みに戸部橋は川に対する架橋角度こそ異なるが、当時既にあった。県道では無かったと言う事だ。
 
 
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いよいよ訳ワカランと思うので地図を。つまりはこういう事である。
現在柏尾川の右岸(北岸)を走る現302号と現402号は、以前は左岸側を走っていた訳だ。
 
その後、(都)藤沢大船線として整備された右岸側の道路が開通し、どちらも右岸側へ移動。
また同時期に山崎跨線橋が開通し、302号が腰越大船線(現304号)を間借した二重経路となった。
 
 
各区間の開通時期だが、
跨線橋は1971年(月日不明)、戸部橋は80年11月14日で確定だが、
玉縄橋-戸部橋(現302/402重複)間は1968-72年の間、
戸部橋-大和橋(現402号支線)間は70年代後半と大まかな時期しか分からない。
 
また、この間に起きた、現402号の終点移動を含む両路線の変遷についても現時点では一切不明。
現402号の終点が移動した事は間違いないが、それは一度だったのか、或いは段階的だったのか(例えば戸部橋北詰が終点だった時代があったとか)、また、それと支線のフライングに関係があるのか。
 
 
さて、今回開通した関谷BP区間についても、実は「曰く」がある。
この情報は、旧ブログの312号の記事に寄せられたskr*h82*さんのコメントで知ったのだが、、
 
 
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関谷BP、1970年代には既にほぼ出来てたんだな。。
 
 
しかし先述の通り、実際の開通は1993年。完成から開通まで、15年も間が開いていたのだ。
また関谷陸橋(BP本線)自体は72年には確認出来るので、着工~開通だと20年以上掛かっている。
 
 
そんなにのんびりしてたモンだから、、
 
 
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ランプ路、草原になってるよ。。
 
 
これもskr*h82*さんのコメントで知った。
文明と自然が融合した瑞々しい舗装路。典型的な未成道路の雄姿(?)ですね。見せモンじゃねーぞ>402号
 
 
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そしてこの忌々しき草原DNAは、接続先の312号(当時は市道)に受け継がれた。
「湘南の悲劇」とでも言うべき、負の連鎖ですね。まぁ厳密には、藤沢も鎌倉も「湘南」の範囲外だが。。
 
 
で、何故「関谷BP」の開通はこんなにも遅れたのか。まぁどうせそんな事だろうと思っていたが、、
 
 
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横浜市の「職務怠慢」です。。
 
勿論、何か理由があっての事だと思うが、1988年時点で完全未着工。流石にビックリだわ。
実延長は鎌倉市飛び地区間を含め400m弱と短いとは言え、僅か数年で一気に開通させた事になる。
 
何故最初からそうしなかったのか、非常に気になる。国道1号との接続方法で国と揉めたのか、
お馴染みの「厄介ハウス」があったのか、或いはホントにやる気が無かっただけなのか――。。
 
 
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因みに横浜市内は、実はまだ「半人前」。1号線を潜って上り線側に接続するランプ路が未開通なのだ。
この区間の1号線は寸胴4車線の為、右折レーンの無い影取町は上り線側からの右折禁止。
よって、上り線側(小田原→東京方面)から関谷BPに入る事は出来ず、「宝の持ち腐れ」状態だ。
 
この上り線用ランプ路が動く気配は無く、今後も長期間この状態が続きそうだ。
正直、こんな手の込んだランプは諦めて、1号線側の整備計画に基いた拡幅で右折レーン付ければ
事足りる様な気が。最もそれは国の管轄だから、市が直接どうこう出来る範疇に無いのだが。。
 
最後に、BPの関谷IC-影取町の様子を簡単に紹介して、このセクションを〆る。
 
 
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県道312号を北上中。県道302号を潜り、藤沢市から鎌倉市に移ると間もなく、、
 
 
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三井団地入口の直後、車線が行先別に分離。右車線は関谷ICのランプ路へ。勿論もう草は無い。。
左急カーブを描くランプ路を抜けると、、
 
 
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そのまま本線の左車線へ。湘南型支柱のソトバが出迎えてくれる可も不可もない4車線道路だ。
 
 
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因みに現道は一部1.5車線路。これは10年3月当時の画像なので、今は拡幅済みかも知れん。
 
 
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BPは長い事ほったらかしておきながら現道はさっさと拡げちゃうのが横浜流、、なのかね。。
実質的には全く別の道路とは言え、BPと現道では雲泥の差がある402号なのであった。
 
 
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さて、インターから続く坂を登り切ると、間もなく右車線が減少し、片側1車線に。
サミット付近は眺望に優れ、丹沢や富士山を一望出来る(富士山は撮り損ねたが)。
 
 
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急坂を下り切ると、短い中道橋(滝の川)を挟んで横浜市へ。
真っ直ぐが1号上り線(東京方面)、右折が1号下り線(小田原方面)・・・のハズだが、
先述の通り上り線側は未開通なので、青看の通り、1号線への車は全車両がここを右折となる。
 
因みに402号側から1号線への流出には制約は無く、上下線どちらにも出られる。
結局、上り線側ランプの不在で困るのは、1号線側だけ・・・
 
 
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なんて事は無く、402号側も渋滞と言う実害を被っている。
この日(13年1月)は昼間だったのでまだマシだが、酷い時は市境から横浜市内は全線渋滞、、なんて事もザラだ。まぁそれならそれで、市境手前の東正院で402号を乗り捨て、倍以上の遠回りにはなるが裏道を使い、ひとつ東側の影取歩道橋東側から出れば済む話だが。。
 
 
上り線側ランプ路、やっぱ欲しいかも。もし出来たら、下り線側の信号は廃止されるのかな?
 
 

 
次は地元の、地味だが重要な変化。
 
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7月21日、厚木市の県道511号(井上依知)の供用開始。いつから大井まで伸びたんだい。。
 
 
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終点直前、依知神社裏手のプチバイパスが開通。
昭和橋及び、511号と一続きの相模川右岸堤防道路(市道)との直結が実現した。
 
痒いところに手が届いたようなバイパスだが、右折レーンが無い為日中は酷く混む。
言わずもがな、神社があって2車線取るのがやっとだったのだ。
開通が平成まで持ち越された事自体、神社の影響に他ならない(堤防道路は80年代前半に開通)
 
 
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こんな具合に、交差点付近は川沿いから離せれば良かったのだが。
これなら508号、511号共に十分な右折レーンを付ける事が可能だが、用地取得が困難だろうな。。
 
 
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なお旧道は、年度末の平成6(1994)年3月31日に格下げされ、市道になった。と言う訳で、、
 
 

 
ヤフーさん、間違ってますよ。。
 
 

 
次はあの路線の再登場。
 
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8月24日、都道・県道501号瓜生相模原線(現57号+都156号)の認定の改正。
起点の住所が「町田市瓜生」から「多摩市永山7丁目」に改められた。
 
これは道路自体の経路変更ではなく、多摩ニュータウン開発の絡みで住所自体が改められた事に伴う(実動編の通り経路も変わったがこの一件とは無関係)変更だが、瓜生を含む旧小野路村の一部が町田市から多摩市に移ったの、1973年なんですけど。物凄く今更感がある。この告示から1年にも満たない94年4月には廃止されるとあれば尚更・・・もしや、廃止に備えた地均しの一環だったとか?
 
 

 
次はあるジャンルで非常に貴重だった旧国道。
 
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10月15日、鎌倉市と藤沢市に跨る国道134号の「腰越旧道」が格下げされ、市道に。
あんまり気にしていなかったが、割と最近まで国道だったのね。
なお、新道(現道)の開通はだいぶ早く、1947-56年の間。多分「湘南道路」の開通と同じだろう。
 
この区間の特徴は、何と言っても江ノ電との併用軌道・・・なんだが、写真が無いorz
以前304号を走った時に撮ったつもりだったが、見てただけで撮ってなかった(たわけがッ
 
 

 
まぁ有名処なので、気になる方は「江ノ電 併用軌道」で画像検索してみて下され。
しかしこのカオス感、見れば見るほど神奈川っぽくない(笑)。往時はおにぎりとかあったんだろうか?
 
 
 
 平成6(1994)年                                             .
 
4月1日、平成初(県道番号導入後初)の大規模路線改定(詳細はこちらをご参照ください)。
藤沢平塚線(47号)や相模原大蔵町線(57号)、平塚松田線(77号)など計10路線が認定された一方、
藤沢寒川線(405号)や瓜生相模原線(501号)、南金目中井線(702号)など計8路線が廃止された。
 
 

 
そんなビッグイヤーの一発目は、そのビッグイベントの当事者である受けた元不通県道。
 
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7月12日、県道611号(大山板戸)の区域変更&供用開始。
4月1日に「大山上粕屋線」から「大山板戸線」に名称更された後、ようやく「真打」の登場となった。
 
開通したのは国道246号県道63号(相模原大磯)との板戸交差点と東名ガード北側を結ぶ板戸バイパス(都・大句石倉線)区間。狭い2~1.5車線の旧道に変わる近代的な高規格2車線道路(16m)だ。
 
・・・それはそうと、旧道の延長、随分長くね?
新道より1㎞近く長いが、流石にそれはオカシ・・・あ、なるほどそう言う事か、、
 
 
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旧道の距離(1.95㎞)には、新起点-旧終点間の距離(0.85㎞)が加わってるからだ。。
「大山板戸線」になったから、旧道も板戸まで伸びたと言う事だろうが、随分とまぁややこしい事を。
そもそも4月1日、大山板戸線の区域変更の告示なんて出てなかったが。。
 
何にせよ、起終点の変更を伴うバイパスが開通した際、旧道の県道指定が継続される場合は、
その起終点から新道の起終点までが旧道の区域に編入(追加)される、、と言う事だろう。
今後はこのややこしい法則を意識しながら読み解く必要のある告示が多数、登場する。
 
 
なお、バイパスの様子についてはこちらをご参照頂きたい。
 
 
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因みに旧道は、3年後の平成9(1997)年11月28日に格下げされた。
 
 
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謎の7mを残して。。
 

 
次は県内では珍しいトンネルを持つ停車場線の、待ちに待った慶事。
 
 
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11月4日、県道307号(辻堂停車場羽鳥)及び県道308号(辻堂停車場辻堂)の区域変更及び供用開始。
辻堂駅東側で東海道線を潜る湘南辻堂地下道(トンネル)の開通である。
 
 
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開通前と開通後の経路の比較図。
307・308号共に、北口に別々の新起点を持つ北口発着の路線に。南口発着の旧道の県道指定も維持された為両県道とも二重経路となったが、307号は踏切廃止に伴い線路の南側が孤立。旧道廃止までの一時的にだが「不通県道」となった。
 
 
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そして現在。
307・308号とも起点が北側に移ると共に、重複は愚か接続すらしない「冷めた関係」になった。
 
308号を307号起点まで伸ばしても良かった気がするが、307号-308号間を北口再開発の一環で4車線の(都)辻堂駅遠藤線として整備したのが県では無く藤沢市だった為、そうならなかったのだろう。
 
 
かつて両県道の起点だった南口。
こちらも北口同様再開発で様変わりしているが、私にとっては一度訪ねるべき場所だろう(未訪)。。
 
 
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因みに、南口発着の旧道の格下げは、2年後の平成8(1996)年4月1日である。
 
 

 
次は厄介農地が開通を拒むあのバイパスに絡んだ意外な真実。
 
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11月18日、中井町の県道77号(平塚松田)の区域変更。「比奈窪バイパス」部分の追加である。
 
 

 
正直、この告示だけなら取り上げなかった。
最重要事項はバイパスの開通時期と旧道の格下げ時期だが、このバイパスはまだ未開通だ。
しかし、次に紹介する告示の「証人」と言うか「犯人」と言うか、とにかく関係者としてお鉢が回ってきた。
 
 
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1週間後の25日、県道709号(中井羽根尾)の区域変更。
旧松田羽根尾線で、半年前の77号誕生の際に松田-中井間を「供出」し、現路線となったばかりだ。
そんな709号の起点(77号分岐)からの延長が、312mから・・・
 
 
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32mに。。
 
 
なんですと!!つまりそれって・・・
 
 
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こう言う事でないの!!
 
いやー、これは驚いた。ふたつの意味で驚いた。
まず、77号が既に、富士見橋三差路から比奈窪BPの起点まで「支線」として伸びている事、
そしてなにより、その支線区間が77号/709号重複区間では無く、77号の単独区間である事。
 
つまり709号の起点は、77号本線との分岐地点・富士見橋ではなく、今は「早くお退き看板」が立つだけの比奈窪BPの起点と言う事になる。BP開通後にこうなる事は重々承知していたが、まさか開通の遥か前(ホントはもっと早い開通を見込んでいたのだろうが)に既に実現していたとは夢にも思わなかった。
 
709号は人知れず、二度目の「供出」を既に終えていたのだった。
ただ、それが何故77号の区域変更と同時で無かったのかは素朴かつ大きな疑問だが。。
 
 
まとめ。709号の本当の起点は、、
 
 
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富士見橋ではなく、、
 
 
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そこから約300m進んだ「お退き看板」の少し先(厳密な位置はワカラン)だった。
 
 
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このウソツキめッ!!
 
 
真面目に、嘘も方便とは正にこの事ですね。これ以外にどう案内しろと。。
 
 
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今回の変遷を路線別にまとめると上図の通り(比奈窪BPの先行整備部の指定時期はワカランかった)
11月18日から25日までの僅か1週間だけだが、77号と709号は重複していた。「一週間お試しセット」かッ
 
 
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今回の編入区間が晴れて本線となる日は、まだ遠そうだ。。
 
 
 平成7(1995)年                                             .
 
次は、相模川が(元)渓谷から平野に移る正にその場所に架る巨大橋。
 
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1月10日、旧城山町の県道510号(長竹川尻)の区域変更。新小倉橋区間の追加である。
その新小倉橋を核とするバイパスの延長が現道の倍近くとやったら長いが、これも「あの法則」による。
 
 
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宮原-山王神社裏間の現道(現在も現役)に対し、正味のバイパス区間新旧連絡区間が追加された。
新道・旧道の起終点をひとつに集約するのが「平成流」なのは先例もあってよーく分かったんだが、、
この路線こそ、旧道をバイパスの実質終点(向原東側)まで伸ばした方が自然だったんじゃ・・・
 
終点の住所(大字)は「久保沢」なのに対し、BPの実質終点は「川尻(かわしり)」だから尚更である。
最も、長竹川尻線の「川尻」は旧川尻村(1955年から旧城山町)に由来する特例的な名称なので、
終点が旧川尻村の範囲内である限り、大字との整合性を気にする必要は無いのだろうが。。
 
ただ、2004年3月の新小倉橋開通の際に区域変更が告示され、
終点が山王神社裏から向原東側に移った可能性も無くは無いが、まぁその辺りもいずれ分かるだろう。
 
 
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個人的な予想(半分妄想)だが、いずれ510号は川尻から橋本まで東伸され、
現道格下げの上「長竹橋本線」になるのではと思っている。
 
 
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さて、どうなるやら。。
 

 
次は平成7年初の大フィーバー。
 
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1月31日、主要地方道3路線の区域変更及び供用開始。①から順に見ていく。
 
 
スミマセン、のっけから既出ネタです。
 
 
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①海老名市-厚木市間の県道43号(藤沢厚木)の区域変更。
全長に対する区域の追加なので、本線とは全く別の支線と言う事になる。具体的には、、
 
 
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(都)社家岡田線の一部、相模大堰(取水堰)に併設された(仮)相模川橋部分である。
両側の破線部は都市計画決定済みだが県道としての区域決定は受けていない(当時。現状は不明)
 
「全く別の支線」にも程があり、本線とは直結すらしていない。
見れば見るほど「何故43号なの?」と言う思いが膨らむばかりだ(開通すれば「法則」で繋がるハズだが)
直結する県道46号(相模原茅ヶ崎)県道601号(酒井金田)の支線が良かったんでないのと。
 
或いは開通後は、最寄りの県道408号(社家停車場)を再編した「社家岡田線」にでもなるのかも知れないが。その場合、最初からそうしないのは、開通前から路線名の変更が必要になるからだろう。。
 
 
まぁ46号・601号共にそれぞれ相模川の左岸・右岸に終始し、渡河交通には縁遠い。
一方、43号は相模大橋で海老名と厚木を結び、方角的にも符合する。
そんな共通項を拠り所に43号に白羽の矢が立った、、と言う事なのだろう。「餅は餅屋」と言う訳だ。
 
 
因みに社家岡田線、、
 
 
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未だに出来ておりません。出来る気配もありません。やっぱあれか、、
 
 
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小学校を突っ切る計画に無理があった?
 
 
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と言うより、実際には例の如く用地取得でコケたようだが。
開通させる気があったから区域変更した訳で、何も無ければ今頃繋がってたんだろうな。勿体ね。。
 
 
因みに当告示、前回紹介時は時期を「今年」と言ったが実際にはここにある通り。失礼しました(_)
 

 
さて、次も既出ネタ。
 
 
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前回も登場した、県道76号(山北藤野)の「最終更新」。
 
 
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初期新起点・新鞠子橋から後期新起点(現終点)・向原分岐(信号ナシ)まで伸びた旨の告示だ。
現在は全線が76号だが、当時は同じく国道246号本線及び旧道(県管理部)との重複だった。
その為、この区間が県道として表記されるのは、2001年の山北BP(瀬戸地区)開通後の事だ。
 
 

 
これまで触れなかったが、地図上では「町道」となっているこの部分(249m)も76号に編入された。
町道から県道になった訳では無く、当時は246県管理部の一部だった(現在は76号単独)。
 
 
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そんな隠れ県道的連絡路(写真は国道側分岐)だが、そもそも誕生の背景がよく分からん。
確かにこの道を使えば、東京側から旧道に入る際に新旧分岐地点(現起点)で右折する必要が無く、
特に安全性の向上に寄与しているが、一方で現起点での右折は禁止されておらず、殆どの車はここから旧道に入っている。安全性向上の為の連絡路と素直に考えるには、いささか説得力に欠けるのだ。
 
 
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或いはBP開通当初は、現起点(写真)での右折が禁止され、旧道は連絡路(写真は分岐地点)からしか入れなかったのかも知れない。後に現起点での右折が解禁され、連絡路は唯一の入口では無くなった、、と言う可能性だ。これなら辻褄は合うが、真相は不明だ。
 
 
唯一確かな事は、道ヲタであれば、、
 
 
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この連絡路を使って損は無い、、と言う事だ。。
 
 
この白看、まだご存命なのかな(写真は09年8月撮影)。
 

 
さて、次は通る度に気になって仕方が無かった、待望の告示。。
 
 
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大井町の県道77号(平塚松田)の「山田バイパス」(八頭橋-上山田)の開通。
真横を通る東名(秦野中井-大井松田)の6車線化と同時期だろうなと思っていたが、それが証明された。
wikIによると、6車線化の完了(多分供用開始)は約3ヶ月後の4月22日だそうな。
 
 
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ちとワカランのが、新道の延長。告示では「1711 メートル」とあるが、正味の延長は1.4㎞と300mも短い。
旧道も、同じく「2270 メートル」とあるが、正味は2㎞とやはり300mほど短い。
 
 
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300mの新旧共通の現拡区間が、八頭橋側、上山田側のどちらか(多分後者)にあったのだろうか?
 
 
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因みに旧道も、八頭橋側を中心に東名建設の際に付け替え道路として整備された新道だった。
つまり現在の77号は「三代目(平成新道)」と言う事になる。
 
 
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そしてその三代目が初代にトドメを刺した事は、皮肉な運命の巡り合わせと言うほかない。
初代から二代目(昭和新道/現旧道)の切り替えの告示は未発見。いずれ見つけられればと思う。。
 
 

 
あ、ほんのちょこっとだけ残ってた(笑)。
 

 
次は前回も登場したあの不通県道。
 
 
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12月22日、南足柄市の県道723号(関本小涌谷)で区域変更及び供用開始。
何やら区域が大量に増え、一見すると訳わかめだが、思い当たる節があったので悩まなかった。。
 
 
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天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!!
 
 
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そう、歩道(天狗の小径)の開通である。
杉並木とあじさいで有名な車道とは若干距離がある為、独立した区域として指定したのだろう。。
 
ネームシール等でひと目で県道と分かるこの歩道、人を車に変えればそのまま車道で使えそうな物々しい警戒標識の通り、滅茶苦茶滑る。ラバー舗装で歩き心地は良いんだが、目の細かさからコケとの相性も抜群。通行の際はくれぐれもスッテングコロリンしないよう要注意だ。早速犠牲者一名(自爆)。
 
 
因みに車道は、ある国家的イベントで舗装がピカピカになり走り心地は非常に良いが、、
 
 
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たまーに木が倒れて来るので注意。。
 
 
天狗じゃ、天狗の(以下略
 
 

 
地図貼り忘れてた。この辺り一帯(仁王門前-最乗寺境内手前)です。
 
 
 平成8(1996)年                                             .
 
次は全線が付け替えられた湖畔の快走路。
 
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3月19日、県道514号(宮ヶ瀬愛川)の供用開始。付け替え道路の全線開通の告示だ。
 
 
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赤区間(起点-仮・県警グラウンド前)が開通。終点側から400mは92年1月に先行開通済みだった。
 
 
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開通と同時に、地底・・・じゃ無かった水底に消えた旧道の廃止の告示も出た。
一番上の「4781m」が旧道(当時既に消滅)。最低敷地幅員2.1mって、車道とは思えん数値だな・・・
その下の「1750m」は多分工事用道路か何か。ダム工事の本格化後、514号は長い事不通だった。
 
で、1750mは消滅、4781mは旧終点から375mの盲腸県道(参考)として僅かに残った。
 
 
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その旧道も、2年後の平成10(1998)年3月17日に廃止。
375mだった延長がいつの間にか約6倍の1855mに伸びた。言わずもがな、原因はあの「法則」だ。
 
 
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「新起終点誕生の際、現役旧道の延長はそこまで伸びるの法則」により、旧道の延長に旧終点-新終点間の延長(約1.4㎞)が加わっていたのだ。また例によってそんな告示は出ていないが、恐らく無意識・・・いやいや自動的に延長される仕組みなのだろう。
 
そんな訳で514号(旧道方面)は、H8~10年の2年間だけ国道412号と重複していた。
恐らく誰にも気付かれぬまま「任期満了」となったこの暫定県道。従えた旧道は既に行先を失くした
「死にぞこない(失礼)」だっただけに、他の同じような暫定県道より悲運に思えるのであった。。
 
 
 
-続く-                                  11月2日 22時40分  公開
 

第⑨回資料収集(実動編)

 
去る10月14日、かすがさんと9回目となる資料収集を行った。
当日は祝日故、県庁はお休み。最初から県立図書館へ。その図書館も17時までの時短開館だ。
 
図書館の最寄駅はJR桜木町駅だが、相鉄線・平沼橋駅からでもさほど遠くないとのかすがさんからのアドバイスを基に、同駅から歩く事に。横浜-桜木町間は往復240円。コピー24枚分の節約である。
なお、横浜と平沼橋の運賃は同じ(海老名から300円)なので、横浜下車の場合は節約にならない。
 
 
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急行で横浜駅まで行った後、各停大和行きで一駅分折り返す。
ホントは二俣川で各停に乗り換えた方が早いが、ちまちま止まられるとイライラするので
この本末転倒な策を取った。そして電車の発車までにイライラすると(嗚呼本末転倒
 
 
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8:47、平沼橋下車。
横浜駅の間近だが、端の方は屋根すら無い都心のローカル駅。お陰で周囲の街並みが良く見える。
 
 
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改札を出た後、駅舎も兼ねる歩行者専用の跨線橋を左へ。
写真は橋上より横浜駅方面。東海道線との並走区間内の為、足元には計5条の線路が並ぶ。
 
 
跨線橋を降りた後、並走する車両用の跨線橋(平岡橋)の側道を進む。
 
 
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橋の出口・西平沼橋で横浜駅東口から伸びる4車線の大通りと合流。道なりに大通りを渡ると、、
 
 
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西平沼橋(石崎川)を挟み、国道1号(現道)との西平沼交差点に。
青看は沈黙するが、真っ直ぐは(主)80号(横浜駅根岸)だ。1号線を渡り、そのままその80号へ。
 
 
御所山の交差点付近から、その名の通り登り坂に。以降日ノ出町まで、カーブとアップダウンが続く。
そんな山越え区間の最中に現れたのが・・・
 
 
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何が言いたいのさ?(笑)
 
 
無理な使い回しがいた、立て看板の暴走でした。一瞬で好きになっちゃった。やめて、迷惑。。
 
 
無理がある。。
 
 
そんなこんなあった坂の頂上付近の五差路を左折。やや窮屈な2車線道路を進むと・・
 
 
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9:06、図書館到着。
普段と逆なので、景色に新鮮味がある。ただ、奥に広がる摩天楼は見慣れた景色だ。
 
 
10時前にかすがさんも到着。
今回の「かすがコレクション」は栃木県の管内図。昨日私が日光に言っていた事に因むものだ。
 
 
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流石標高2000m、もう紅葉が見頃でした。最もここは日光の裏側、群馬県片品村だが。
 
 
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元よりそのつもりだったが、正真正銘の日光市内はまだ早かった。でも渋滞はなかなかでした。
因みにここはスタート地点。小5の修学旅行以来、自分の運転では初のいろは坂でした。。
 
 
で、折角の管内図だったが、いつもより短い開館時間等の悪条件から余裕が無く、全く写真を撮らなかった。個別の路線はともかく、デザインが分かる程度の全体写真くらいは撮っておけばよかったなと。
個人的な感覚では、神奈川の管内図より見易かった。神奈川も悪くないとは思うが。。
 
そしてかすがさんが持ってきてくれたものは、もうひとつあった。東京都の公報のコピーだ。
お初にお目に掛かるその中身。なんと言ってもその最大の長所は、、
 
 
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図、、だよなぁ。。
 
 
神奈川の公報(県報)と違い、区域に加え、当該箇所のアナログチックな図面が併記されているのだ。
だから、どこで区域変更があったのがが一目瞭然で、非常に分かり易い。さすが首都!!
 
ただ、文字情報による比較は表形式の神奈川の方が見易いかな。
それに何だかんだ言っても、文字情報だけを頼りにアレコレ考えたり探したりするのも公報漁りの醍醐味と言えなくもない。まぁその結果分かりませんでしたと言うパターンが最悪で、県報ではそれが日常茶飯事な訳だが・・・
 
因みに上図は瓜生相模原線(現57号・都156号)の起点部の区域変更(1976年9月11日)。
黒い部分が供用開始に伴う追加(編入)部分で、現在は「尾根幹」の一部になっている。
 
府中町田線(都18号)に斜めに合流するのが指定を解除(廃止)された旧道。
多摩ニュータウン開発による容赦ない地形改変により、今は跡形も無い。
 
 
神奈川県道に絡むコピー計10枚を有償譲渡してもらったが、うち特に話題性のある2枚をご紹介。
 
 
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1978年5月29日、北野街道こと八王子市内の都道上館日野線(173号)の旧道格下げ。
 
 
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湯殿川沿いの激狭区間の一部は北野街道でもあったと言う話をしたが、、
 
 
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その旧経路が格下げされたと言う告示だ。
かすがさん、よく覚えてましたねこの話。言い出しっぺの私は既に忘れてましたよ(流石⑨
 
 
とにかく、格下げ時期が分かった事でいよいよ実走したくなった。
最も、私にとって真に魅力的なのはこの旧道自体と言うより、その真横にある・・・
 
 

 
この信号なのだが。。
 
 
流石⑨
 
 
畜生、知ってたら絶対この時寄ったのに。
この悔恨、同志のかすがさんならきっと分かってくれるハズ(分かんねーから
 
 
 
さて、次も大物。見る人が見れば、その特徴的な線形だけで場所が分かるだろう。。
 
 
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1983年2月9日、八王子上野原線(521号)の和田峠区間の編入&供用開始。
黒線部が当該部で現在の経路。白線部が旧道で、当時はまだ都道のままだったようだ。
 
と言っても、新道がヘアピンで大回りしている部分を直線的に登る無茶苦茶な線形から、
恐らく車道開通前の登山道か、或いは実体のない書類上の「エアー都道」だろう。
少なくとも去年、私がチャリでノロノロ登った時には、それらしい道は皆無だったが。
 
 
そんな不通区間に変わる車道が遂に開通・・・という単純な話でもなさそうだ。何故ながら、、
 
 
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今回の供用開始区間、1974年の航空写真にバッチリ写ってるんだなコレが。。
恐らく今回の告示は、実質都道の林道だった区間を正式な都道に編入した事に伴うものではないかと。
 
林道自体の開通時期は不明。
神奈川県側が昭和43(1968)年5月頃なので、その頃だとは思うが。。
 
 
そもそも80年代の開通であれば、いくら比較的低規格な林道でも、、
 
 
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こげな「無茶」はせんでしょう。。
 
 
和田峠の歴史を解き明かすには、公報以外の手段が必要だろう。
 
 
都の公報、見ているだけで楽しいアイテムだった。これならコピーのし甲斐も・・・と言いたい所だが、
コピー代が一部25円と何故か割高だそうで、鬼コピーは無理そうだ。流石首都。物価も高いね(泣)
 
 
さて、愛想のよい都報との対面を終え、ぶっきらぼうな県報との格闘(むしろ乱闘)再会。
飯も食わずにひたすら作業に明け暮れた。そして17時、いつもより2時間早い閉館と同時に退館。
 
 
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いつもは真っ暗な館外も、今日はまだ辛うじて昼の気配が残っていた。
紅葉坂に面したゲート前で少し話し込んだ後、かすがさんは久々の原付で、私は徒歩で帰路に就いた。
 
 
来た道をひたすら戻り、、
 
 
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17:48、平沼橋駅に到着。
流石に帰りは海老名方面への各停に乗るが、その電車が10分も来なかった。流石都会のローカル駅。
 
 
 
 
-報告編に続く-                          11月2日  22時40分  公開
 

第8回資料収集(後編)

 
ようやく舞台が昭和から平成へ移った「第8回」のやっつけ報告の、今回は後編です。
 
 平成2(1990)年                                             .
 
次は物理的には単純だが、路線的に妙な告示。
 
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4月6日、南足柄市の矢倉沢山北線(現726号)の供用開始。
 
 
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場所はココ。っと言われてもこれだけでは「?」なので、この住所を地図で追う。結果、、
 
 
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この区間と言う事になった。あーそこね、、
 
 
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追い越しに最適な禁止の直線ね。長ーい掘割。近代土木のなせる力技ですね。。
 
 
いや、ちょっとオカシイぞそれ。いや、追越禁止がじゃなくて、路線名が。。
 
 
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ココ78号つまり当時の関本御殿場線(元722号)でしょ。。
 
 
なんで「矢倉沢山北線」として開通してるん?意味ワカランのだが。。
百歩譲って重複区間だったとしても、上位(本線)は関本御殿場線。書かれるべきはそっちでしょう。
 
 
と言うか、そもそも726号の厳密な起点ってどこなんだろ。。
 
 
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ヤフー地図だと旧道が「726」になってるが、その末端の新旧合流地点?
 
 
こう言う事は告示に聞け!!と言う訳で認定時の告示を見てみると、、
 
 
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矢倉沢関場五三六番地先から―――
 
 
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「こっち」じゃんかよ。。
 
 
仮に旧道が726号に編入され、起点が「ココ」に移ったとしても、それはバイパス開通後の話だから、
やはり告示が間違っている(○御殿場関本線、×矢倉沢山北線)のだろう。それとも何か、、
 
 
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こうだったとでも言うのかね?
 
 
まぁ確かにこれなら、旧道が726号に編入された事も含め辻褄が合うが、流石に無いだろ。。
 
 
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そもそもこのバイパスの区域変更(追加)に関する告示は「関本御殿場線」として出てるんだから。。
 
 
因みにこの旧道の格下げに関する告示も見た気がしたが、見つからんかった。
ホントはそれ使って「県報もヤフーも間違ってましたフヒヒー」って〆るつもりだったのにぃ。。
 
 
少なくとも現時点で、この区間が726号で無い事は確か。この旧道部分を含めた場合の延長は、全県図にある実延長と合わないのだ。ただ、県道でないかどうか、つまり78号でないかどうかまでは不明。
管内図があれば一発だが、旧松田土木事務所管内は手元にないんよね。今度買おうかな。。
 
 
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まぁこんな「空っぽ」の標識立ってるから、多分今は市道だと思うが。
でも、逆にこんなの立ってるものだから余計ややこしい。と言うのも、、
 
県道番号制定に伴うヘキサの新設は平成3年から。この道の旧道化より1年後だ。
つまりこのヘキサは旧道化後にわざわざ立てられた訳で、それ即ちここが旧道化後も暫く県道だった事を意味する。そしてそれが78号、726号どっちだったのかがワカランと(両方の可能性も無くは無いが)。
 
 
と言う具合に、結局分からない事だらけなのでした。。
 

 
次は、曲者揃いの「神奈川ゾロ目軍団」のトップ。
 
 
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4月13日(供用開始は16日)、藤沢市の横浜伊勢原線(現22号)の「区域変更及び供用開始」。
こうやっていつも区域変更と供用開始が一緒だと分かり易くて助かるだけどね。コピー代も浮くし(本音
 
 
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「長後バイパス」の東半分、高倉中入口-高鎌橋間が開通。
西半分が1970年に開通してから丸20年、ようやっと待望の全線開通となった。
 
開通前は上下線とも、迂回路である国道467号(当時は県道藤沢町田線)上で一度右折が必要だった上に狭い旧道を通らねばならず、相当不便だったろう。西半分のような「厄介」なアンダーパスもないのに何故20年も掛かったのか、不思議でならない。厄介なお家でも建ってたんだろうか。。
 
 
それにも増して不思議、、といよりもはや理不尽にさえ思うのだが・・・
 
 
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なんで この区間だけ2車線 なのかなと。
 
 
お陰で日中は、両方向とも酷く混む。「スピード落せ」。いやはや、言われるまでもございません。。
 
 
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真面目に、前後4車線(含規格)なんだから、ケチらんと4車線で造れば良かったのに。
むしろ、どうして2車線なのか。恐らくその原因は、旧道にあるのだろう。。
 
 
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旧道のうち、467号付近までは(都)3・5・27 高倉下長後線としてBPと同じ16mに拡幅する計画が
ある。これが完成すればBPの交通量が分散されるからこの区間は2車線で、、と言う事なのだろう。
 
 
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でも、高倉下長後線の直接的な恩恵を受けるのは、既にBPとは無縁の座間・大和方面への車両だけ。横浜側からBP経由で伊勢原・藤沢市街方面へ向かう車両は減らないし、伊勢原側から横浜方面への車両も然り。旧道全線が16mに広がり長後駅前の踏切も無くなるなら間違いなく分散するだろうが、そんな計画は無い(それが無理だからBP造った訳で)。
 
せめてどちらか一方だけでも片側2車線、つまり変則3車線道路にすれば、増えた側の渋滞は大幅に緩和されよう。最も、幅的には余裕だが、県にそんな気は無かろう。「余裕」と言っても歩道を削る大改修が必要で、余程切迫した渋滞でもない限り、そもそも現実的でない。
 
 
待望の、しかしちょっと残念なバイパスなのでした。22号、やっぱりアンタは曲者だ。。
 
 
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因みに旧道は、平成4(1992)年9月8日に格下げされた。
「新」の延長が二重経路時代のBP(「旧」の下段)の延長と微妙に合わないのは、、
 
 
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BP開通当時はこうだった経路が、、
 
 
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こうなった為だ。
旧道格下げと同時に、横浜市境-新旧分岐地点の区域(約80m)が、旧道から新道に移ったのだ。
開通当時の本線はあくまで旧道だった訳だ。毎度の事だが、いちいち小難しい仕組みである。
 
 
 平成3(1991)年                                              .
 
この年から現行の県道番号が導入された。
だが、日付がワカランのでこの年まで路線名と県道番号の併記を続けます。
 
 
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3月8日、秦野市の平塚秦野線(現62号)の区域変更及びその供用開始。
 
 
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西大竹-堀川入口間の「南縁バイパス(都・西大竹堀川線区間)」が全線開通。
各所にあった先行開通部と共に、晴れて県道に指定された。
合わせて本線とを結ぶ河原町-西大竹間も、既存の秦野二宮線(現71号)との重複区間となった。
 
 
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この道も、本当なら4車線欲しかったな。
秦野中井IC等へ向かう通過交通に沿道店舗への買い物客が合わさり、日中は常時渋滞気味だ。
 
この区間は全幅20mなので、元々は4車線道路として整備する計画だったのだろう。
しかし、旧規格であるこの幅員での4車線は、窮屈な歩道に右折レーンも中央分離帯も無い車道を合わせた不便で危険な「寸胴4車線」となってしまう。それを、歩車道共に広い2車線に改め、広く取った歩道を有効利用して桜も植えたのがこの区間なのだ。
 
 
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実際、同じ(都)西大竹堀川線のうち、70年代に先行開通した区間は危なっかしい寸胴4車線だ。
当初は県道区間もこうなる予定だった。しかし、量より質を求める時代の流れが、それを拒んだ。
最も、当初計画通りだったら混まなかったと言う保証はどこにもない、、と言うか多分混むな。。
 
 
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なお、かつては大部分が国道(246/255)だった旧道は、平成6年4月1日に格下げされた。
 

 
次は直轄不通国道。。
 
 
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3月15日、「湾岸道路」こと国道357号の区域決定。建設省(当時)からの通知を基にした告示だ。
住所がエラい大雑把だが、「夏島町」と聞けば、三度の飯の次に道路が好きな私はすぐにピンと来た。。
 
 
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シーパラ先の未開通区間だ。小坊の頃遠足で行った日産追浜(おっぱま)工場の真横を掠める。
バンパーを再利用したセダン車の模型を貰ったんだけど、すぐどっか行っちゃったな。
自走機能付きとは、流石世界の日産!!(ホントにモノ大事にしないクソガキでした
 
横須賀港への原子力空母配備の絡みで事業化するとか言うウワサもあったが、今の所進展なし。
海上に500m超の長大橋とくれば、いくら天下の湾岸道路とてそう簡単には動かんのだろう。
 
 
それに今は、、
 
 
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間門-磯子間の大掛りな新設工事に忙しいし。。
 
 
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ベイブリッジ同様、湾岸線の下に一般道を通すダブルデッキ構造。凄いもの造ってるよなー。。
ただ、上が県道(294号)で下が直轄国道と言う「逆転」にはかなり違和感があるが(笑)
 
 
因みに2006年だったかな、八景島側の端点の様子を「シーパラダイスタワー(乗り物)」から「空撮」
した事があったんだが、その画像が行方不明になってしまった。ホント、モノ大事にしないね。。
 
 
因みに八景島は一般車進入禁止なので、一般車に対する未開通区間は地図上より長い。
横須賀延伸実現の為に除けなければならない「重石」は、空母より重いのかもしれない。。
 
 
 平成4(1992)年                                              .
 
遂に県道番号解禁!!やっとやり易くなるぜ・・・
と思ったが、それでも面倒な路線が存在する。平成4年は、そんな路線の一大事が目白押しだった。
 
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3月26日、中井町の県道702号南金目中井線(現77号平塚松田線)の井ノ口トンネル開通。
現77号のトンネルを含むバイパスは、これですべて完成。702号が77号に変る2年前の事である。
 
 
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急カーブ、急勾配の本格的な山道を避ける立派なバイパス。近代的で完璧なバイパスだが、、
 
 
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旧道も決して捨てたものでは無いなと。。
 
 
そんな「井ノ口・藤沢富士観旧道」の格下げ時期は調査中。分かり次第追記する。
 
 
 
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格下げ時期は平成5(1993)年12月17日でした(11/9追記)
 
 

 
さて、トンネルとくれば次は橋の出番(なの?)。
 
 
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9月6日(告示は1日)、平塚市と寒川町を結ぶ神川橋開通。すぐ下流に架っていた先代の後継である。
開通当時は県道44号(伊勢原藤沢)だったが、現在は県道47号(藤沢平塚)の橋となっている。
 
 
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富士の雄姿を遠望する、超重要幹線にしてはやや低規格な現在橋。
旧橋との干渉を避ける為、平塚寄りを頂点に上流側に張り出す弓なりのカーブを描いている。
 
 
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のすぐ下流側を並走する2車線の廃道は、先代へのアプローチ部分、、だろうか。。
この道は、袂で合流する旧道も含めて切り回しが複数回あった為、まだ全容が掴めていない。。
 
 
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振り返れば、ヤツが居る。。
 
 
なお、現在橋開通のその瞬間まで現役だった旧橋の解体は、翌1994年頃に完了したようだ。
 
 

 
こんな所で「第8回」の成果報告は終了。その他の膨大な成果も、早く「還元」したいものである。
 

 
【おまけ:残機15%】
 
 
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まぁたそう言うこと言って工工エエエエエェェ(´д`)ェェエエエエエ工工
 
 
「しばらくしてから投稿して下さい」。今この瞬間に消えたのに、暫くもへったくれもあるんですか?
幸い確認画面のお陰で大事に至らなかったが、これで大惨事になる事もしばしば。勘弁してよホント。。
 
 
ブチ切れながら早速余計な復旧作業に掛かったが、、
 
 
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途中でコレだもんね。。
 
 
そう言う大事な事はさ、作業が進む前に言って欲しい訳で。しかもなによ「\n」って。
結局このページもパァになり、しかもその後は30分以上、「修正」自体が不可能に。。
 
 
まぁヤフーお得意のシステム障害である。
ただ、今回がいつもと決定的に違うのは、その原因(システム変更)が思い当たる事だ。
 
 
そしてそれは、ヤフーからの唐突な、そして非常に重大な警告でもあった。
 
 
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いきなり末期。。
 
 
不通が解消された後、突如トップページに表示された「画像ディスクの使用率」。
その数値は既にレッドゾーンに突入していた。
 
 
「2nd」移行からまだ1年とちょい。流石にこの短期間で「3rd」に移行する気は無い。
現道がまだピカピカなのに、もうバイパス造ってどうするんですかと。。
 
これまでも画像容量はそれなりに気にしていたが、「限界」が明確になった事で、よりシビアな管理が必要になった。と言っても、画質(画像サイズ)を落としたり、投稿枚数を殊更抑えたりと言った対策は考えていないが(無理です)。要するに、容量制限に対する姿勢が「意識する」から「覚悟する」に変わったと言う事かな。結局その瞬間は、寿命のように自然に迎える事になるのだろう。
 
 
2ndの終点まで、あと15%。。
 
 

 
【追伸(10/29)】
 
大事な告示をふたつほど忘れてました。以下に追加します。。
 
イメージ 40
 
昭和61年12月23日、国道138号の区域決定。
要は箱根町の宮の下三差路から現終点・小田原市街の市民会館前三差路までの延伸である。
全線国道1号と重複している上に「138」の案内は皆無故、実質的な終点は現在でも「宮の下」だ。
 
 
イメージ 41
 
区域が小田原市内でなく麓の湯本までなのは、湯本(箱根新道・山崎IC)以降は直轄国道だから。
直轄区間の延長は約5㎞で、合わせて約12㎞延伸された。
 
 
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管轄境界標識@山崎IC
 
スッキリしないのは、東伸の時期そのもの。
wikiだと26年も前の「1960年6月20日」となっており、全然時期が合わないのだ。
 
まぁ路線認定・追加=区域決定とは限らないので、60年に延伸、86年に(ようやく)区域決定
と言う経緯だったのかも知れないが。この件に関しては、wikiがデマカセと言う事は無いと思う。
 
 
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とにかくこの一件で、渋滞区間も伸びた138号なのでした。良い迷惑だったかもしれんね(笑)。。
どうせ伸ばすなら、、
 
 
イメージ 42
 
バイパスにてそれを実現してもらいたいな。
実はそんな計画があるから延伸した、、訳は無いな。でも、バイパスは真面目にあっても良いかと。。
 

 
次は大ごとの陰で起きた地味な変化。
昭和63(1988)年3月19日、足柄大橋開通に伴い2路線が新たに認定され、1路線が廃止となった。
 
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その際、廃止された関本松田線切通し以南で重複していた小田原山北線(現74号)で区域変更。
怒田と儘下(まました・告示は誤字)に跨る「82m」が新たに追加されたのだが・・・。
 
場所は正に切通し交差点付近で、関本松田線の一部に当たる。
つまり、関本松田線だった部分のほんの一部が、小田原山北線の支線に衣替えされた訳だ。
 
 
で、この告示を見て思った。。
 
 
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コレの事か、、と。。
 
 
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切通し交差点からやけに離れた場所に、「74旧—2 EP」のペイントがあったのだ。
 
 
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勿論、起点(交差点)側にもある。
これを見て寄り道が始まった訳だが、まさかゴールがあんなに遠いとは思わなんだ。。
 
この告示により、このペイントの正しさと支線の指定時期が判明した訳だが、
そもそも何故この部分だけ支線に指定され、格下げを免れたのかと言う根本に関しては全く不明。。
 
考えられるのは、橋(洞川橋/洞川)が架っているからだろうか。
見ての通りこの橋は架け替えからまだ日が浅く、2008年12月竣工。
 
 
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架け替え工事中(写真は07年8月)は通行止めで、北側に造られた迂回路で迂回していた。
 
当初私はてっきり、この架替工事を県主体で行う為に、着工直前に県道に「再指定」したのかと思っていたが、実際には無関係だった。最も、橋の存在自体は、この支線誕生と深く関わっているとは思うが。。
 
 
それはそうと、、
 
 
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いつ終わります?本線の拡幅。。
 
 
直近だと6月に通ったが、まだこのままだった。
着工はコッチの方が遥かに早かったが、後から始まった支線に先を越されてしまった。
 
 
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そりゃ怒るよヘキサも(仕様です)。。
 
 
怒田支線は平成22(2010)年3月30日に廃止されていました(12月18日追加)
当該写真は10年9月の撮影なので、廃止から既に半年が経過していました
 
 

 
 
 
-終り-                                  28日  9時00分  公開
 

第8回資料収集(中編)

 
中編からは、今回調査で得た情報のうち、特に気になったものをご紹介する。
ホントは後編で終わらせる予定だったのに、いつも通りのオーバーラン。嗚呼大ヤケド(泣)
 
 
 昭和61(1986)年                                            .
 
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まずは8月12日、県道の路線変更。誰がどう変わったのかと言うと、、
 
 
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「大船停車場吉田」(現203号)が「大船停車場矢部」に、
高速湾岸線(現294号)は起点が「横浜市」から「横浜市金沢区」となった。
 
前者に関しては、その原因は既に把握いていた。
終点・戸塚駅東口の再開発に伴う経路変更により、終点位置が変わった為だ。
「トツカーナ」でお馴染みの西口の再開発はつい最近完了したが、東口は平成を待たず完了していた。
 
 
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1983年の戸塚駅付近の航空写真。東口の再開発は既に着工済みのようだが、道はまだそのままだ。
当時の現203号は、かの悪名高き戸塚大踏切のすぐ東側で国道1号(旧道)に合流・終了していた。
 
 
恐らくそれに起因する深刻な渋滞もそうなる要因のひとつだったのだろう、、
 
 
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再開発後の県道は、吉倉橋(柏尾川)から大きく右にカーブし、踏切から距離を置いて1号線に合流。
かくて新終点は、踏切間際(約20m)だった旧終点から100mほど東側に移動した。
 
 
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そしてその移動先が(ギリギリ)矢部町だった為、路線名の変更に至ったと言う訳である。
 
・・・何というか、みみっちい。いっそこの機会に「大船(停)戸塚線」にでもすれば良かったのにと。
多分地元民と一部道ヲタ以外、「矢部」と言われても分からん気が。最悪「相模原?」とかなりかねん。
最も一部道ヲタ以外は、そもそも路線名など気にしない訳だが。
 
 
で、その道ヲタはこの告示どころか県報の存在すら知らない頃からこの事実を把握していた。いやね、、
 
 
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相棒(当時)がそう言ってたものだから。。
 
 
92年の地図が何故こんな事言ってるのか非常に不思議だが、まぁ「嘘も方便」と言う事で特赦。。
で、この情報に基づき、203号走破時(10年2月)に残存部分をちょっくら覗いてみたんだが、、
 
 
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幅的に、どうも当時のままでは無さそう(写真は旧終点より吉倉橋・大船方面)。
ビルにぶち当たって途切れるまでの位置は同じっぽいが、幅や構造物は再開発で変わったようだ。
元相棒が言うように、元々狭い2車線だったようだが、ここまで狭くは無かろう。残念。。
 
 
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新道(現道)はこんな道。再開発で生まれたビルに囲まれた高規格な2車線道路だ。
左のビルの裏側に、上写真で登場した旧道の名残がある。
 
 
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因みに、事あるごとに言及しているが、戸塚大踏切はその解消に向けアンダーパス(4車線)を新設中。
 
 
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完成すると、1号線と県道22号(横浜伊勢原)の経路が踏切からアンダーパスに移ると同時に、
踏切は廃止され、車での線路両側の行き来は出来なくなる(歩行者は新設歩道橋で横断可能)。
 
 
そうなると、、
 
 
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203号、新旧分岐地点となるアンダーパス東口まで約400m延伸される?
因みに、東口の住所は矢部町なので、もし延伸されても路線名自体は変わらないだろう。
 
 

 
一方、湾岸線の「横浜市」→「横浜市金沢区」についてはよく分からん。
 
 
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多分単純に、本牧(中区)から幸浦(金沢区/現終点)までが追加されたか、
或いは昭和58年9月の認定当初は大雑把だった住所を厳密化したかのどちらかじゃないかなと。。
 
 
チャリ御免の路線は、チャリ可の路線にも増して大雑把なあおまるさんなのでした。。
 

 
続いては、金目川沿いの大動脈。
 
 
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9月2日、秦野市内の平塚秦野線(現62号)の区域変更。
 
 
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場所はココ。河原町の手前、斉ケ分陸橋の旧道である。この図は変更前。変更後は、、
 
 
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こうなった。言わずもがな、疑問は何故蓬莱橋(金目川)から西側だけ格下げなのかと言う事。
 
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瞬時に「橋の架け替えと関係が?」と思ったが、この部分格下げ前に現在橋に架け替え済みのようだ。
 
 
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更にこの旧道、残る部分も僅か6ヶ月後の昭和62(1987)年3月31日に格下げされ、全線市道となった。
うーん、であれば尚更、何故わざわざ二度に分けたのか、サッパリワカラン。。
 
 
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その2度目の格下げ寸前に立てられた街灯。
 
 
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多分県からの「餞別」だったんだろうな。4年前の謎が、遂に解けた。
 
 
「この旧道のバイパス(現在の県道)はどう考えてもそれ(街灯設置)以前に完成しているはず(恐らく1975年~80年の間)。つまり、この銘板の通りなら、この道は旧道化後も暫くの間県道だったと言う事になりますが、果たして」
 
 
当時は新道開通即旧道化(一部例外あり)だと思ってたんだろうね( ´,_ゝ`)プッ
 
 
因みに、新道(現道)の斉ケ分陸橋の開通は昭和37(1962)年10月(大ハズレー)。
旧道化からかれこれ約25年も県道指定が維持されていた訳だが、それ自体が不思議と言えばそうだ。
 
ただ、鶴巻方面-秦野駅方面は現在も旧道がメインルート。その重要性が、格下げを遅らせた主因
だったのかも知れない。なお、旧道の東端部はそのまま曽屋鶴巻線(現613号)に引き継がれている。
この時現曽屋鶴巻線の区域変更(延伸)は出ていない為、格下げ前から重複していたようだ。
 
 
 
ただ、昭和35年の認定当時の起点は旧道との合流地点だった。いつ現起点まで伸びたんだろ。
 
 
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昭和37(1962)年10月26日だそうな。
そっちの告示は無いが(愚か者めがorz)、日付的に陸橋開通と同日か直後だろう。。
 
 
いやー良かったよ613号、、
 
 
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「真相は藪の中」にならなくてサ。。
 
 
このヘキサ、今もこんなモザイク状態なんだろうか。旧道通り越して廃道染みとるんだが。。
 
 

 
次は我が地元の慶事。
 
 
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9月13日、厚木市内の相模原大磯線(現63号)の才戸橋開通。
 
 
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いつかの使い回し。歩道が上流側(相模原方面)のみなのは、暫定2車線だから。
(都)厚木環状4号線の整備に伴い4車線化される計画だが、こっちは全く動く気配が無い。。
 
歩道が4車線化の「人質」になっている訳で、規模こそ違えど構図は山北バイパスと同じだ。
富士見大橋みたいな構造(4車線化時の歩道部分が後付。つまり暫定2車線時は両側1車線分が歩道)だったら良かったんだが、多分当時は技術的にか、費用的にか、或いは両面で難しかったのだろう。
 
 
因みに旧橋は1.5車線だったらしい。内陸工業団地も近く、往時は相当なボトルネックだったようだ。。
 
 
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大磯側の袂には、旧橋の親柱が保存されている。恐らく幅もこの程度だったのだろう。
 
 
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振り返って現橋との位置比較。大磯側から見た場合、現橋とは末広がりの位置関係にあった。
対岸・相模原側の橋台跡は、立派な桜の下で静かな眠りについている。大役、お疲れ様でした。。
 
 

 
次はこの橋を潜った水が海に注ぐ場所に架る長大橋。
 
 
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10月20日、相模川の最下流に架る国道134号湘南大橋開通。
 
 
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この橋も暫定2車線だったが、2010年3月29日に上り線側が開通、4車線化を達成した(参考)。
なおこの日は、やはり暫定2車線の中津川大橋も、才戸橋の一本下流側に開通。
 
才戸橋開通→直後に湘南大橋開通→湘南大橋4車線化/才戸橋の隣の中津川大橋開通――
「相模川水系」と「暫定2車線」で繋がる橋による、連鎖反応とでも言うべき不思議な縁を感じた。。
 
因みに中津川大橋は今年の3月27日、圏央道の開通に先立って4車線化された(参考)。
真っ先に開通したのに「最後の一本」になった才戸橋、涙目。縁が無かったっちゅう事かね。。
 

 
次は書類上の話。
 
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11月4日、横浜鎌倉線(現21号)の路線変更の改正(ややこしい)。
前日3日に栄区が誕生(戸塚区から分区)した事に伴い、昭和30年の主要地方道昇格(路線変更)時
の告示中の「主な経由地」が、戸塚区から栄区に変わった。経路変更等の物理的な変化は一切ない。
 
因みに反対北側の泉区も同時に分区したそうな。また、瀬谷区も元は戸塚区だったそうな(1969年分区)。誕生当時の初期戸塚区、かなりデカかったんだなぁ。今は戸塚駅を中心に約36㎢だが、往時は約95㎢と、約94㎢の厚木市よりデカかった。横浜市の西側全部が戸塚区だった訳だ。凄いぞ戸塚区!!
 
 
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でも何故かカントリーサインは皆ショボいんよね@件の203号
線を境に左は栄区。と言う事は、この標識は1986年生まれとみて間違いなさそうだ。
 
 
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因みに栄区は更新され、区章入りの近代仕様。大型対策で横向いてるからどの道見えないが。。
ヘキサはともかく、せめてカントリーサインくらいは前向けようよと・・・
 
 
「区」が「苦」に思えるような、不憫なカントリーサイン達なのであった。
 
 
 昭和62(1987)年                                           .
 
いきなり既出ネタですが、、
 
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3月31日、同9日の大秦野駅の秦野駅への改称に伴い、
堀山下大秦野停車場線(現705号)と大秦野停車場線(現704号)の「大秦野」が「秦野」に改められた。
 
 
駅名の改称は珍しくないが(相模厚木→本厚木等々)、それに伴う路線名の変更は珍しいのではないかと。
因みに大秦野駅と同時に、東隣の大根駅も東海大学前駅に改称された。「大」がダメだったのかな(それじゃ現名称もダメじゃん)。まぁ「またか」と思う人も多数おられると思うが、敢えて言おう。。
 
 
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屠自古だいこん」ではないと。。
 
 
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なお、駅へと続くこの橋は、平成6年4月、県道614号(南矢名東海大学停車場)となった。
 
 
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さて、何と読むでしょうか!?見事正解した方には、1年分の大根を(もういいっちゅうねん
 
                                                       正解:ひので

 
次は年度末大フィーバー。。
 
 
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3月31日、区域変更を伴う告示が6つ同時に登場。
①は先述の「斉ケ分旧道」の格下げなので飛ばし、②から順に見ていこう。
 
 
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まず、公所大磯線(現609号)の「山下旧道」の格下げ。
 
 

 
路線終盤の未改良区間にある短い旧道。
 
 
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1.5車線の古そうな旧道だが、割と最近まで現役だったんだね。。
因みに、開通時期は不明(泣)。現道の規格からすると、60年代-70年代前半だと思われる。
 
 
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次は小田原山北線(現74号)の「和田河原旧道」の格下げ。
 
 
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場所はココ。全長は2.6㎞と、山下の旧道の比では無い規模。そして、、
 
 
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狭さ。。
 
1968年5月の新道(現道)開通まで、これが本線でした。最も当時は、この程度はザラだったと思うが。
ただ、現道は古さ故の低規格さから流れが悪い上、200mほど遠回りな為、抜け道としての利用価値
は高い。かくいう私も一度山北側から全線南下した事があるが、もういいや、心臓によくない(笑)
 

 
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次は関本松田線(現712号松田停車場)の支線格下げ。
十文字橋を渡る旧道と新十文字橋(1970年12月17日開通)を渡る現道を連絡する区間。
 
と言うかココ、暫定措置とはいえ県道だったのね。
十文字橋-円通寺間の旧道の格下げによる橋-松田駅前の孤立化を防ぐ為の指定だったのだろう。
 

 
次も旧松田土木事務所管内。
 
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山北町の山北藤野線(現76号)の旧道格下げ。
 
 
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神縄(かみなわ)-神尾田間なので、神尾田トンネル(1975年10月14日開通)の旧道なのは間違いなさそうだが、区域がイマイチよく分からん。なお、新道(現道)の延長が旧道の3倍以上あるのは、旧道の大部分が昭和53(1978)年完成の三保ダム(丹沢湖)で消滅し、ダム側(藤野側)が大幅に縮んでいた為だろう。その「盲腸旧道」が今回格下げされたようだ。
 
 

 
次も酒匂川流域。もとい真横。。
 
 
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小田原市の沼田国府津線(現717号、但し市道)の旧道の格下げ。
 
 
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県道のままだった旧富士道橋(跡)へと続く旧道の一部が格下げされた。
悲しいかな、この旧道は走行経験が無い。他の未走行旧道と共に、いずれ是非訪ねたい。
 
 
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因みに、富士道橋の開通は昭和53(1978)年3月20日。
2009年3月29日に件の富士見大橋が開通し、旧道化。2012年に市道に格下げされ、現在に至る。
 
 
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そしてその富士見橋の4車線化はいつの日か。。
 
 
以上、年度末フィーバーでした。
結局、60・600、70・700エリアの独壇場だったて言う。。
 

 
一気に年末まで飛び、、
 
 
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12月8日、再び公所大磯線。平塚市の「根坂間バイパス」が開通。
 
 
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かまくら橋-大昔の県道合流を結ぶ北端部が開通。
これにて当バイパスは全通となった(但し、現道拡幅区間の改良は未完成)
 
なお、西側を並走する旧道及び、旧道と現拡区間を結ぶ暫定県道は、平成元(1989)年4月1日に
格下げされた。私はてっきりオリジナルの旧道(紫部橙部)が格下げされたのだと思っていたが、実際には橙部は既に格下げ済みで、その物理的な旧道に当たる水色部橙部に変わる暫定的な県道に指定されていたのだ。
 
609号の動画作製時の記事で触れた通り、この水色部は大正9(1920)年に二宮伊勢原線(現63号の前身)の一部となった後、現在の63号への経路切り替えに伴い戦前に旧道化。その後一部が公所大磯線の前身・大磯伊勢原線に再認定されるも、やはり戦前の橙部の開通に伴い青部と共に再び旧道化。
 
その後は県道とは無縁の「大昔の旧道」だと思っていたが、実は昭和の末期、一時的に公所大磯線として「復活」していたのだ。つまり水色部には、公所大磯線としての過去があったのだ。
 
 
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水色部青部から橙部に切り替わった経路がいつ、再び逆転したのか。新たな謎が、また増えた。。
 
 
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最後に旧道格下げ時の告示。
コピーしくじって合成不能だったのでそのまま添付。見辛くてスミマセン(_)
旧道1553m+新道1215mによる二重経路を新道に一本化したと言う内容です。
 

 
12月15日、あおまる誕生。以降はやっと生後の出来事と言う事になる。
 
 
 昭和63(1988)年                                           .
 
正月早々地元で一大事(当時は海老名市民だったが)。
 
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1月8日、厚木市の上粕屋厚木線(現603号)の旧道格下げ。
 
 
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いつかの使い回しマップ。紫色の部分が格下げされ、旧道(市道水引小野線)となった。
ただ、厚木市街-小野・七沢方面は現在でも旧道がメインで、重要性は全く変わっていない。
 
 
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青看もそう仰ってるし。
同じ2車線で1㎞も遠回りじゃ、そりゃ「高度な偽装」もしたくなるよなと。。
 

 
次は久々の大物。。
 
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3月15日、路線認定。くっそ一番ヤなトコでページ跨ぎやがって!!素直に教えんかい!!
 
 
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おぉ!!大井開成関本線(現78号)と松田停車場線(現712号)の認定及び、関本松田線の廃止だ。
やはり「大井開成関本」の認定と「関本松田」の廃止は同時だったか。。
 
 
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同時に大井開成関本線は、全線で供用開始との告示が出ている。
道路自体は足柄大橋を残し全部出来ていたハズだから、県道としての供用開始と言う事だろう。
 
 
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逆に言えば、足柄大橋の開通がこの一連の動き全ての引き金になっていると言う事だ。
供用開始は3月19日。これが正に足柄大橋の開通日だろう。
 
一応ウェブでチェック掛けたら、開通当日の貴重な様子を収めたサイトがあった(オフィシャルかは不明)。
同ページ内にリンクがある広報の情報と合わせ、3月19日開通で間違いないようだ。
 
 
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認定路線の区域。
大井開成関本線の延長についてはまんま(大井松田)インター前-竜福寺間の距離だが、
幅員がちと引っ掛かった。ほぼ全線が新設の18m道道路に、何故7.2mなんて狭い場所が?
 
一部は暫定開通だったのだろうか。
一応開通直後の航空写真で全線追ってみたが、それらしい場所は無かった。
 
 
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因みに、一番狭い下原隧道でも9.5mあるから、隧道の事では無いようだ。
そもそも隧道幅員=敷地幅員とも限らんし(多分幾らか下駄履いてると思う)。
 
 
一方の松田停車場線。
今まで薄々そうじゃないかなと思ってたが、今回の告示を見て、そのモヤモヤは確信に変わった。。
 
 
大井開成関本線の旧道に当たる為廃止となった関本松田線から、
尚も重要な新十文字橋を含む開成-松田間を引き継ぐ形で誕生したこの路線。
 
 
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最初はこういう路線だと思ってて、レポもそういう風に書いたんだけど、普通に考えたら、、
 
 
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こうだよね。。
 
 
駅前の短い区間と十文字橋を渡る本線は、別々の路線では無く一体の路線だったのだ。
実際。告示にある「1979m」は起点(松田駅前)-河南沢-終点(新延沢)の延長と符合する。
 
 
何故最初からこうだと思わなかったのか。それはひとえに「ヤツ」が居たから。
 
 
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ヤツが。。
 
地図はグーグル(大昔)だが、当時はヤフーもマピオンもこの激細路地を県道としていた。
一体何がどうしてそうなったのか、非常に気になる。因みに今は各社とも修正されている。
故に地図探しが大変だった。大昔にmixiで使った地図がこんな形で役に立つとは・・・
 
 
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この路地が県道だった場合、単独区間は計3本。この状況で駅前区間と新十文字橋区間に
繋がりを見出すのは無理だった。と言うか、何が何だか分からんかったと言う方が正しいか。
 
また、駅前区間が旧道である事も大いに影響した。駅前区間は県道時代の名残で、往時は駅入口
が起点or終点だから(実際は終点)、隣の河南沢を起点とする新道とは個別の路線だろうと思ったのだ。
 
翻弄されたわ、激狭路地(③)に。最も、「停車場線」なのだから、新道(①)の起点が駅から離れている時点で②と一体なのではと普通は思うが、普通でないあおまるさんにはちと無理だったようだorz
なお、③が県道でないと調べて教えてくれたのはかすがさんである。ありがとうございました(_)
 
 
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最後に各路線の位置関係。
廃止された関本松田線のうち、新延沢以東は全線が松田停車場線となった。
 
 
気になるのが、関本松田線の終点。
 
 
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元は旧道の出口である松田駅入口だった。それが新十文字橋開通で河南沢に移ったのか、或いは
そのままだったのかが分からないのだ。旧道(十文字橋区間)各下げ時の告示を見れば分かるのが、
その告示が無いって言う/(^o^)\。そんな訳で、関本松田線の正確な区域(延長)は不明ですorz
 
起点については、小田原山北線(現74号)との重複区間内にあった(仮)郵便局前で間違いない。
だから、郵便局前-松田駅入口(4.7㎞)か、郵便局前-河南沢(4.4㎞)のどっちかだろうと。
 
 
まぁどっちでも良いんだけどサ>一般ピー
 
 
モヤモヤは、まだ残りそうだ。。
 
なお、大井開成関本線は平成3(1991)年から「県道713号(大井開成関本)」となり、
更に3年後の平成6年4月1日、県道722号(関本御殿場)と共に現在の78号(御殿場大井)となった。
享年6歳。大正9(1920)年認定の関本松田線に比べ、かなり短命な路線だった。。
 

 
さて、同じ日、もうひとつ重要な告示が出ていた。
 
 
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横須賀市街と横横・横須賀ICを結ぶ有料道路、本町山中線(現28号)の区域決定だ。
 
 

 
認定が昭和61(1986)年1月7日だから、かれこれ2年も要した。有料道路たればこその「余裕」か。
そして平成4(1992)年3月21日(15時)の供用開始まで、更に丸4年掛る。。
 

 
次はまた既出ネタ。
 
 
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3月22日、藤野津久井線(現518号)の区域変更。青馬橋旧道の格下げである。
 
 
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数日前の使い回し。
1964年開通の新道(現道)の西側を走っていた旧道が遂に格下げされた。
この旧道も、旧終点から不動之橋まではクルマで走ったが、橋以降のつづら折れ区間が未走行。
 
 
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いやね、標識氏が 通行止 だと仰るから(どの口が
 
 
当時はまだこれが旧道だとは知らず、この標識を見て「あ、っぽいな」と思い、、
 
 
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気になってちょっとだけ入り込んでみたら、境界標が登場。。
 
 
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で、確信。ならばと更に進むも、、
 
 
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やーめた。。
 
で、現在に至る。いや、道が荒れてるからと言うより、時間が無かったから退いたんだけど。。
 
 
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宮ヶ瀬でちょっと遊び過ぎちゃってね。。
 
 
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荒井林道、その名の通り、荒かった。あらら。。
 
 

 
次は天下の険・箱根に、新たな「犠牲者挑戦者」が登場。
 
 
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4月1日、深沢仙石原線(現静岡401号・神奈川736号御殿場箱根線)の認定。
 
 
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いつかの(以下ry
今回認定されたのは乙女道路の旧道に当たる青区間だ。
平成6(1994)年4月1日、赤及び緑区間の追加に伴い「御殿場箱根線」となり、現在に至る。
 
妙なのは、この時国道138号の区域変更(旧道格下げ)の告示が出ていない事。つまり旧道は、
県道には認定されたものの、引き続き国道でもあったと言う摩訶不思議な状況だった事になる。
旧国道を母体とする路線の認定は、普通旧道の国道指定解除とセットで行われるものだが・・・
 
 
現時点で国道指定解除の告示は見つかっていない。
 
 

 
次は同じく箱根の隠れ盲腸県道。
 
 
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4月22日、箱根町宮城野の関本小涌谷線(現723号)の区域変更。
75mの激狭旧道と115mの新道による二重経路が新道に一本化された。
 
 
旧道はえっらい幅が狭いが、、
 
 
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まぁ確かにそんなモンだわ。。
 
と言う訳で、車両通行不能の登山道だった旧道が格下げされた。
告示にもある通り、新道(現道)より急勾配な分距離は40mも短く、登山者はそちらに誘導される。
 
 
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人同士すら離合困難なこんな道でも、、
 
 
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一端の県道だったんです。
新道が開通するまで、この区間は明神ヶ岳(1169m)を挟んだ不通区間の一部だった。
ただ、流石にメジャーな登山道の一部で民家も近いと言う事で、普通の登山道より「高級」かな。。
 
 
まず第一に舗装されている。
 
 
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街灯(防犯灯)も付いてるし・・・
 
 
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段差も付いてるし。。
 
 
やっぱり登山道ですねハイ。。 
 
 
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因みに、ヘアピン状のカーブを描く新道を曲がり切ると即端点で、不通区間に移る。
 
 
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新旧分岐地点でもある端点から明神ヶ岳まで徒歩90分。標高差は約600mだ。
 
 
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因みに723号は明神ヶ岳の登山道ではあるが、寸でのところで山頂へは行かず、そのまま
南足柄(最乗寺)側に降りて行く。どうせなら山頂寄ってけば良いのに。富士山綺麗だよ。。
 
 
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雲が無ければ(´・ω・`)
 
 
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そう遠くない走破(踏破)の日こそ、曇りなき紺碧の空に浮かぶ富士を望みたいものである。。
 

 
こんな所で昭和は終了。舞台は遂に平成へ。
 
 平成元(1989)年                                           .
 
次は、 何気に分断県道だったあの路線。
 
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1月31日、旧相模湖町の奥牧野相模湖線の供用開始。
 
 
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桂橋(相模川)と一体のバイパスのうち、若柳トンネルの部分のみ先に開通したようだ。
正直これは「正気か!!?」と思った。だって、、
 
 
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トンネル出口、即三差路だからね。。
 
 
これを先行開通とは、なかなかにリスキー。既に橋もあったから、相模川にダイブって事は無かったが。
 
 
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洞内右カーブで見通しが悪い上に、○舗装の通り橋に向かって急な下り勾配だから尚更だ。
 
 
では、肝心要の桂橋はいつ開通したのか。。
 
 
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約1ヶ月後の2月21日。トンネル開通、この日まで待っても良かったんじゃ・・・
 
 
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そして更にもう約1ヶ月後の3月17日、何故か橋部分がもう一度開通。
 
 
どういう事なの?
 
 
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2月の開通時は何かしら(例えば片側の歩道とか)未完成の暫定開通だったとか?
真相は不明だ。県報でワカランのじゃお手上げだ。。
 
 
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因みに橋の銘板は88年3月竣工とあった。開通の1年前に出来上がっていたらしい。しても高い。。
 
 
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トンネルは少し早く、87年8月。
 
 
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ブルドーザーみたいな厳つい「落石返し」を乗せた坑口が特徴的だ。しても寒い・・・。。
 
 
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なお、旧道の格下げは平成4年3月31日。
新道650mに対し、旧道1010m。一気に350mも縮むとは・・・
 
 
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さすがイナズマ旧道。。
 
 
どう見ても車道の描く線形では無く、旧道時代は車両通行不能区間だった。
そんな旧道もまた未走行(歩行)。これもいずれ訪ねなければと思っている。
 
 
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すんげー行きたくないけど。。
 
 
折れ方もそうだけど、勾配がオカシイ。見てるだけで痺れるわ・・・
 
 
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なお、現役時代は人道橋としてはかなり立派な吊り橋が架っていたそうな。
 
 
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ぼ、亡霊が、、橋の亡霊がぁ!!
 
 
真面目に、いつまで残ってたんでしょうね。。
 
 
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なお、そんな吊り橋が県道になったのは昭和49(1974)年11月26日。
それまで奥牧野相模湖線はピクニックランド(現プレジャーフォレスト)で終わっていた。
 
 
桂橋の開通で遂に念願の全線開通、、かと思いきや、、
 
 
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橋の先にまだ未開通区間(千木良バイパス)があると。。
 
 
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未開通脱却へ向けた517号の戦いは、まだ終わらない。。
 
 

 
次は平成最初の大フィーバー。
 
 
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4月1日、計4路線の区域変更の告示。うち、①と②は前回紹介済みの松輪旧道(三浦市/現215号)
と先述の根坂間旧道(平塚市/現609号)の格下げの告示で既に紹介済みなので、③からみていく。
 
 
そしてこの③番が、今回最も印象的だった。
 
 
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伊勢原市の大山上粕屋線(現611号大山板戸線)。
見辛いので補正をしたが、大山地内で延長が大幅に縮んだ。その場所は瞬時に分かった。
 
 
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登山道区間である。。
 
 
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以前、「この区間は登山道県道だ!」と豪語したが、後にかすがさんから「今はもう県道じゃなさそうよ」と言う情報を頂いた。この告示は、そんな「いわくつき」の区間の真相をつまびらかにするものだった。
 
 
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確かに登山道は県道だった。しかし今はもう、県道では無かった。これがこの区間の真相だった。
611号は不通県道では無く、普通の県道だったのだ。600番台最大の謎が、解き明かされた。
 

 
続いて④番。これも大物だ。。
 
 
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正真正銘の不通県道、山北藤野線(現76号)の区域変更。現611号とは逆に、こちらは2㎞伸びた。
どこが伸びたのか。終点の住所は同じなので、起点側が伸びた。即ち、、 
 
 
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この図の青区間、旧国道246号の谷峨旧道区間だ。「谷峨バイパス」は前年3月に開通した。
今回の延伸は、谷峨旧道の格下げを受けてか、或いはそれに備えての措置だろう。
 
これにより、起点は認定時の清水橋から新鞠子橋まで移動。
図の通り、6年後のH7年(1月31日)には更に向原まで延伸され(当面は全線国道重複)、現在に至る。
 
76号の東伸時期はこれで解明。
あとはH7年延伸区間の246の指定解除時期の確定のみだが、これもいずれ分かるだろう。
 

 
次はあの激坂辺境県道の意外な真実。。
 
 
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4月4日(施行は1日)、山中湖小山線(現730号・147号)の管轄変更について。
山梨、静岡両県に挟まれ孤立している神奈川区間約1.6㎞の管理者が、神奈川県から山梨県に移った。
つまりあの区間は、実質的には山梨県道と言う事になった訳だ。
 
 
マジか。。
 
 
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マジだ。。 
 
こんなに堂々書いてあるのに、この前は全く気付かんかった。怖いな、思い込みって。。
 
 
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言われてみれば、確かに矢印標識の仕様はモロ山梨風だ。
神奈川では、黄色地に黒矢印の警戒標識タイプは主流では無い。
 
 
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矢印部分が赤い反射素材のもか、、
 
 
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矢印を模した「くの字型」の表示がやはり赤い反射素材のタイプが主流だ。
地の色は黄色と白が7対3くらいかな。白地バージョンは基本的に表示部が反射素材でない。
 
 
今更だが、標識や表示の仕様は各都道府県ごとに異なっている。ヘキサなどはその好例だろう。
 
 
とにかく、730号の神奈川区間は山梨県の管理下にある事が分かった。
その「まさか」の真実にとても驚くと同時に、ふと思った。神奈川県が管理していないなら、、
 
 
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走破対象外でおk?、、と。。
 
 
激坂三国峠擁する山中湖小山線。
車道としては本県最高(約1130m)を誇るその峠道を、私はまだ1ミリたりと登っていない。。
 
 
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いっそ県道の外側(北側)に沿って県境を引き直せば良いのにとか思ってないですよホント。。
 
そんなある意味走り甲斐の無い神奈川区間は、翌90年1月26日に全線の改良が一括で完成。
この工事に関しては、主体が神奈川、山梨のどちらかは不明。あの急峻地形での工事が1年で終わる訳ないので、神奈川主体で始めた工事の完成が見通せたから山梨への移管が決定、、と言う流れだったとは思うが。で、下が工事完了の告示なのだが・・・
 
 
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改良前の幅員狭ッ!!
 
 
しかもこれ、法面等を含む敷地幅員だから、正味の道幅はもっと狭かった訳で・・・
 
 
イメージ 100
 
現在は微妙に狭いながらも2車線だが、往時は延々1車線だったらしい。
当時は静岡県側も狭く、今のように気軽に使える抜け道では無かったようだ。。
 
ただ、1975年時点の航空写真では既に一部が拡幅済みで、1990年まで全線的に狭かった訳では
無いようだ。告示にある幅員は完全未改良時代のものだろう。ちょっと騙されるところだったぜ。。
 
 

 
以上で平成元年は終了。次回は平成2年、強いて言えば1990年代に入る。
 
 
 
-続く-                                   26日 23時20分  公開
 

第8回資料収集(前編)

 
去る10月3日、かすがさんと8回目となる資料収集を実施。今回も舞台は、県庁と県立図書館である。
今日こそは開庁時間直後に、、全然間に合わない微妙な時間に自宅を出発。あーまた寝坊だ。。
 
愛甲石田駅から電車を乗り継ぎ、前回同様関内で下車。一緒に下車した遠足のお子様共が無秩序
にホームに溢れ、にっちもさっちもいかない状況にイライラしながら(大人げない)改札から「脱出」。
 
そのイライラ状態のままベイスターズ通りをツカツカ歩き・・・
 
 
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9:27、県庁到着。脇目も振らずに歩くと5分程度。多分前回より半減だ。
 
前回の初歩的ミス(公報二度見)を教訓に、今回はすんなり目的の公報から調査開始。
ほどなくかすがさんも到着。今日はぴったり前回の続きからですよ!!(普通だから
 
 
なんといっても今回は、大きな節目を迎える事に意義がある。そう、遂に・・・
 
 
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あおまる、降臨。。・・・はどーでもよくて、、
 
 
 
< 写真撮り忘れたー orz>
遂に年号が、昭和から平成へ!
 
 
本格的に公報めくりを初めて5回目、ようやく今生きてる年号が始まった。長かったー。。
さて、昭和から平成に移るにあたり、気になる点がいくつか。
 
 
① 昭和最後の告示に載った路線及び内容は?
② 昭和64年は一週間しか無かったが、その間に路線変更等はあったのか?
③ 平成最初の告示に載った路線及びその内容は?
 
 
早速チェックや!!(言いだしっぺがかすがさんなので関西弁です)
 
 
イメージ 8
 
まず、昭和64年は該当ゼロ。告示自体がふたつしかありませんでした。まぁ正月すからね。。
と言う訳で、昭和最後の告示は昭和63年最後の告示と言う事になった。
 
 
果たしてそれは、いつ、そして誰だったのか。。
 
 
イメージ 7
 
12月27日の国道129号でした。
最も「上溝旧道」なので、今の県道508号(厚木城山)だが(因みに46号との重複区間/この辺)。
 
内容は現道拡幅に伴う区域変更だが、最低敷地幅員が50㎝しか変わっとらん。
普通の車道が6mだから、7.2mじゃ歩道は片側に付くか付かないかくらい。全然広がらんのね。。
 
117m全部が7.2mでは無いだろうが、現在の幅員は16mだから、まだ拡幅の途中だったのかな。
因みに「供用開始」ではないので、実際の幅員はまだ6.7m~14.3mのままだ(告示のヤなトコ)
 
 
一方、平成最初の告示はどうか。
華のトップと言う事で否が応にも大物に期待してしまうよ。
 
 
BP開通か、旧道格下げか、はたまた路線認定か!?
 
 
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オイ、また現拡かよ!!
 
 
と言う訳で、1月17日、秦野大井線(現708号)の現道拡幅に伴う区域変更でした。
面白味のない区域変更だった事も去る事ながら、幅が殆ど広がらない事が悲しかったわ。。
 
 
5.3mって、某77号くらいの根性ないとセンターラインすら引けないじゃん。。
 
 
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まぁ普通に引いてあるんだけども。。
 
 

 
因みにここは峠集落の旧道。2006年頃の峠バイパス開通に伴い、現在は市道に格下げされている。
 
 
イメージ 11
 
惜しい、実に惜しい。。
 
 
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現役時代は、非不通区間としては秦野最狭の険道だった。
 
 
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場所によってはバイパスの歩道より狭いからねー。ってかBPが広すぎるんだが(農作業用スペース?)
 
 
 
と言う訳で、昭和最後・平成最初共に、そう言うプレミアが無ければ素通りする内容でした(´・ω・`)
でも、本筋と違う部分に、実は注目すべき点があったり。
 
昭和最後の告示:区域延長117m
平成最初の告示:1月17日
 
 
良いな、、この無意味だが運命的な連帯感。
道の神様って、ホントにいるのかも知れんね。いやいや道祖神じゃなくて。。
 
 
イメージ 21
 
因みに、県庁から約1.5㎞、(主)80号(横浜駅根岸)が中村川を渡る車橋
 
 
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昭和64年竣工でした。神降臨(県道じゃないけど)。。
 
 
こんな具合に、脇道に逸れまくりつつも作業は進み、、
 
 
イメージ 13
 
最後の大仕事が鬼コピー。英世大先生が半分になっちまったぜ。。
因みにこれは1回目。2回目で先生はお亡くなりになられた。貯金箱と言うより、賽銭箱かな・・・
 
 
続いて、県報以外の調べもの。
知りたかったのは、動画を作製中だった現県道522号(棡原藤野)について。
 
 
イメージ 14
 
昭和35(1960)年4月01日に「佐野川吉野線」から「佐野川小淵線」に変わった後、
昭和40(1965)年12月27日に延伸され、起点が佐野川橋西詰から山梨県境まで移動。
 
しかしこの時、山梨県側がまだ県道ではなかったのか、或いは現521号のように県境を挟んで名称が
異なる(都道区間=上野原八王子線、県道区間=佐野川上野原線)状態だったのかは不明だが、
名称は「佐野川小淵線」のまま変更されなかった。
 
 
ではいつ「佐野川小淵線」は現在の「棡原藤野線」になったのか。それが知りたかった。。
 
 
イメージ 3
 
こういう事は『交通年鑑』に聞け!
と言う事で昭和40年以降の年鑑を当たると、昭和42(1967)年であった事がたちどころに判明。
 
 
判明したんだけど、、
 
 
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県内最長だった事も判明(違
 
 
かの「輿瀬三崎懸道」を思い出したよ。
良く見ると、八王子城山(現506号)の整理番号も変だぞ。。
 
因みにwikiでは「認定年月日:1967年(昭和42年)6月5日」となっている(動画作成後に気付いた)。
この部分はソースが無いので断定は出来んが、十中八九これで間違いないだろう。
 
ただ、山梨側にも前身となる路線が既にあったのか、或いは完全に新規認定だったのかは不明だ。
県報見れば一発なんだろうが、甲府は遠すぎるなぁ。因みに山梨県立図書館は甲府駅の真ん前だ。
 
 
そう言えば、2年前の6月に目の前を通ったなぁ。
 
 
イメージ 15
 
まだ工事中だったけど。。
 
 
 
因みにこの日は、県道31号(甲府山梨)の山梨市側からの完走を目指した。
 
 
イメージ 16
 
太良ケ(たらが)峠。標高約1115m。ここで山梨市から甲府市に移る(写真は甲府側から)。
 
 
イメージ 17
 
小さいながら、富士山も見える。甲府市街も見えるが少し遠いかな。。
 
 
イメージ 18
 
甲府市側の下り。峠直後が狭いものの、中盤は高規格な2車線。これが麓まで続くかと思いきや・・・
 
 
イメージ 19
 
主要地方道ェ・・・
 
 
終盤は激狭&コンクリ舗装の急勾配。待避所ロクにナシ。こんな区間が2㎞も続きます。
主要地方道、しかも県都のそれとは思えぬ険道っぷりなのでした。さすが有名処。。
 
 
イメージ 20
 
こんなの立ってるから、7㎞先まで快走路かと思ったぜ。。
因みに動画撮ってたんですが、謎のズームが掛ってて山しか映ってませんでしたorz
 
 
 
脱線終了。
続いて、かすがさん持参の貴重なアイテム、人呼んで「かすがコレクション」のご紹介。。
 
 
イメージ 5
 
まずは富士山周辺の観光マップ。「ドライブインガイド社」は、今はもうないそうだ。
発行年は確か1971年だったかな。富士山と共に表紙を飾る東名(1968年開通)はまだ初々しい。
 
 
イメージ 6
 
この地図で、富士河口湖町の中心部(舟津市街)を避ける国道139号のバイパスの名称が分かった。
「横町バイパス」だそうな。新旧合流地点・上宿の字が横町なので、それに因んだ名称のようだ。
 
 
それにしても、、
 
 
イメージ 23
 
国道だらけ(笑)。。
 
「流石に」抜けてるが、左の139号(横町バイパス)は身延へ抜ける国道300号とも重複している。
横町、大人気だね。そしてその横町に私はいつ、辿り着くのか(走破対象の138号・413号の起点)
 
なお、横町バイパスの様子はこの動画(2分3秒~)をご参照下され。
河口湖IC以西は申し分ない規格だが、河口湖ICまではやや低規格で、中央分離帯もない。
 
 
イメージ 24
 
続いて、「若木書房」より我らが神奈川県の全域道路地図。この出版社も今は無い。
発刊年は失念。これも70年代だったと思う。因みに我が家で最も古いのは84年くらいだったと思う。
全県図なので細い道路を見るのには不向きだが、いっぺんに全県見られるので遠出には良いかと。
 
 
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厚木市付近の様子。
主要地方道が黄色、一般県道が緑と現行の地図・表記と真逆なので慣れないと見辛いかも知れないが、慣れてしまえば問題ない。国県道の番号(県道は主要地方道のみ。当時は整理番号)は、路線上では無く線外に線と同色で記されており、パッと見管内図の趣だ。
 
 
むしろこの地図は、管内図をより実用的に進化させた「最強の管内図」かもしれない。何故なら、、
 
 
イメージ 25
 
不通区間が普通に載ってんだもん。。
 
 
初めて見たよ、不通区間の載った市販の地図。若木書房、惜しい出版社を失くしたようだ。
もちろん不通区間記載の背景には、「時代的背景」も大いにあったのだろう。
 
今の地図はとにかく一般の人が見易いように、要するにムダを全て削いで作られている印象だが、当時はどう考えても不要な情報も取り敢えず載せて、要る要らないは読者が判断して下さいと言う具合に、作り手側の裁量が今より大きかったんじゃないかなと。つまり、良い意味で大雑把だったんじゃないかなと。今市販の地図でこんな事したら、クレーム入りそうだもんね。道無いじゃないか、、と。。
 
 
あとこれも「時代だなぁ」と思ったのが、東名高速に振ってあるそろばん型の「1」の文字。
ご存知の方もおられようが、実は高速道路にも一般国道のような番号が存在するのだ。
 
東名は「高速自動車国道1号」で、開通当初は首都高みたいに標識もあったらしいが、番号より名前で呼ぶ方が主流となり、一向に番号による呼称が流行らんかった為(だろうね)、いつの間にか「フェードアウト」(一度使ってみたかった)したそうな。
 
因みにこれもトリビアのレベルだが、東名は名神、山陽道、九州道など共にアジアハイウェイ1号にも指定されている。いつだか忘れたが、指定の前提となる国際会議だか条約だかに加盟だか署名したのは割と最近(2000年代)だったと思う(違ったらゴメンナサイ)。当然、実益は何もなく、分担金だけ負担する事になってるんだと思うが。。
 
 
起点は日本の道路の基点・日本橋で、
終点はアジアと欧州の境目、トルコ・イスタンブールの先のブルガリアとの国境。
 
 
 
 
一応図示するとココ。さぁ日本橋まで辿ってみよう!!(政情不安な国ばっか・・・)
 
 
コレ、カメラでも積んで自家用車で完走したらかなり面白いだろうね。大冒険だ(現行制度じゃ無理だろうが)
一応東名は車による「走破対象」だが、アジアハイウェイ1号は言うまでも無く対・象・外です。。
 
 
名前に反して、フィールドは狭いんです(´・ω・`)
 
 
でもこういうビッグスケールの話も良いよね。日本の道路と外国の道路が「A1」と言う「共通言語」で繋がってると思うと、何だかワクワクする。戯言だが、もし新東名が全通したら、指定を東名から移してもらいたいなと。それにより、日本の高速道路の素晴らしさをアジア中に知らしめる事が・・・(そう言う仕組みじゃないから
 
 
ま、仮にそんな話があったとしても、まずその前に全線6車線化ですな。
 
 
イメージ 27
                                                  今里トンネル下り
もう要らんだろ、猪瀬ポール。
オリンピックで日本に来た外人さんに笑われちゃうよ。日本は高速道路でニンジン育つのかと(いやいや
 
 
イメージ 28
 
で、話は戻って神奈川県の大動脈・国道129号。
そうそう、この頃はまだ厚相バイパス(新昭和橋)が無かったんだよね。
 
 
イメージ 29
 
橋本バイパスも・・・って、なんだこりゃ!! こんな道路、今も無いわ!!
 
 
でも、破線部南端の田名赤坂の異様な急カーブっぷりを見ると、一定の信憑性はあるんだよなぁ。
当初はこの破線通りにバイパスを造る計画だったが、諸々あって現拡主体の計画に切り替えた――
そう言う見方も十分に出来る。なお、この破線の経路と殆ど同じ道路計画は、現在も実在する。
 
 
イメージ 30
 
(都)3・4・8 上溝橋本線。しかし幅員は16m(広い2車線)で、22m(4車線)の国道とは乖離がある。
ただこの都計道は昭和38(1963)年1月に認定された後、昭和51(1976)年に「何らかの変更」を受けている。その「変更」が、国道の計画変更に伴う幅員の縮小(22→16m)であれば、やはり地図中の破線の正体は「国道BP計画線」と言う事になる。或いは国道云々とは無関係に、単純に「(都)上溝橋本線の計画線」として描いただけなのかもしれない。真相は不明だ。。
 
 
イメージ 31
田名赤坂の青看。「下九沢」とかマイナー地名書かんと「高尾・城山」とか書けば良いのに
 
 
こんな大変興味深い資料を見ながら県庁での調査は進み、17時頃に終了・退庁。
以前気になった、ココ壱脇の定食屋で毎度おなじみの遅い昼食を採った後、徒歩で県立図書館へ。
 
 
イメージ 32
 
17:21、到着。
 
 
イメージ 33
 
ここでも鬼コピーをかまし、閉館時刻の19時に退館。
 
 
イメージ 34
 
すっかり陽が落ち暗くなった紅葉坂を下り、、
 
 
イメージ 35
 
新横浜通りを北へ。今日も横浜駅までてくてく歩く。
紅葉坂から移るとすぐに「西区」の標識が出迎えてくれるが、仕様も角度も凄まじくやる気が無い(笑)
 
 
イメージ 36
 
ビルの狭間を一直線に伸びる元河川の4車線道路。
ビル一軒分を挟んで右側を並走する国道16号より断然歩道が広く、歩きやすい。
変わらないのは、走っている車がみな異様に殺気立っている事か。良くも悪くも都会だなと思った。。
 
16号の起点にして終点・高島町で1号線を渡り、ビル街を更に5分ほど歩くと駅東口に到着。
コンコースでかすがさんと別れ、各々帰路に就いた。今日も大収穫だった。。
 
 
 
【おまけ】
 
 
イメージ 37
 
愛甲石田駅で下車したら、怒声上げながらホームで派手に揉みあってました。
何があったのかは分かりませんが、止めに入ってる仲間の方と駅員さん、ホントにご苦労様です。。
 
 
 
 
-続く-                                   23日 0時55分  公開
 
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