ここからは報告編。今回は前編です。。
平成5(1993)年 .
まずは先日旧ブログで、県道312号(田谷藤沢)の未開通区間の絡みで話題に上がったあの路線。
6月25日、鎌倉市の県道402号(阿久和鎌倉)の「関谷バイパス(都・由比ガ浜関谷線区間)」開通。
写真は区域変更の告示だが、同時に供用開始の告示も出ている。何で分けたんだろ・・・
影取町-関谷ICが開通。同時に両サイドが新たに県道に編入(追加指定)された。
新旧比較表のうち、「新」が「3044m」と「104m」に別れているのは、、
横浜市側の区間が、鎌倉市の飛び地をちょうど通過している為だろう。
多分管理者は横浜市だろうが、区域自体は県所管の鎌倉市内なので告示したのだろう。
なお、この飛び地区間を除く横浜市側の区域(約1.3㎞)は当告示に含まれていない。
同日の横浜市の公報(市報)に載っているハズだが、まぁそっちは良いかなと。。
と言う訳で、今回の供用開始(開通・編入)区間は県側の3.1㎞と横浜市側の1.3㎞を合わせた4.4㎞と言う事になる。少し気になるのは、終点-山崎跨線橋北間が今回の告示に含まれていない事。
※2度目
終点より南側、つまりマイナス方向に伸びるこの区間も見ての通り、
今回供用を始めた「関谷BP」のパーツのひとつだが、今回の告示には登場しなかった。
つまり当区間は、「支線」として既に402号に指定されていた事になるが、時期は不明。
そもそも何故この区間だけ先に指定されてたのかが分からん。
関谷IC-影取町間の開通まで、重複相手の県道302号(小袋谷藤沢)の単独で良かったんじゃ?
色々不思議である。そうそう「不思議」と言えば、、
実はすんごく気になっていた402号の厳密な終点、この場所である事が確定しました。
管内図はホントの事言ってたんだね!!
まぁコレは大ウソだけどね。。これだから管内図は信用ならん・・・
最も、何故大船駅前や戸部橋北詰と言ったキリの良い場所ではなく、こんな中途半な場所なのか
と言った根本的な疑問は残ったままだが。そもそもこの路線に関しては、認定時期すら不明だ。。
件の昭和35(1960)年4月に阿久和大船線廃止/阿久和鎌倉線再認定の告示が出ており、
戦前なのは間違いない。そして当時の終点は、「岡本」ではなく柏尾川を挟んだ「台」。
当時は山崎跨線橋などなく、302号が同跨線橋をバイパスとする二重経路になる前、
つまり鎌倉踏切を渡るルートのみだった事を考えると、、
踏切北側のこの三差路だろう。
住居表示実施に伴う住所変更により今の地図では確認出来ないが、延長的に間違いない。
阿久和大船線当時の昭和33(1958)年の全県図も、精度が悪いがそのように描いてある。
また現302号も、当時は踏切直後の戸部橋ではなく一本下流側の玉縄橋を渡っていたようだ。
つまりこの道旧県道。。
なのは70年代の管内図を見て既に把握済みだが(写真は玉縄橋南詰より大船駅方面)。
因みに戸部橋は川に対する架橋角度こそ異なるが、当時既にあった。県道では無かったと言う事だ。
いよいよ訳ワカランと思うので地図を。つまりはこういう事である。
現在柏尾川の右岸(北岸)を走る現302号と現402号は、以前は左岸側を走っていた訳だ。
その後、(都)藤沢大船線として整備された右岸側の道路が開通し、どちらも右岸側へ移動。
また同時期に山崎跨線橋が開通し、302号が腰越大船線(現304号)を間借した二重経路となった。
各区間の開通時期だが、
跨線橋は1971年(月日不明)、戸部橋は80年11月14日で確定だが、
玉縄橋-戸部橋(現302/402重複)間は1968-72年の間、
戸部橋-大和橋(現402号支線)間は70年代後半と大まかな時期しか分からない。
また、この間に起きた、現402号の終点移動を含む両路線の変遷についても現時点では一切不明。
現402号の終点が移動した事は間違いないが、それは一度だったのか、或いは段階的だったのか(例えば戸部橋北詰が終点だった時代があったとか)、また、それと支線のフライングに関係があるのか。
さて、今回開通した関谷BP区間についても、実は「曰く」がある。
この情報は、旧ブログの312号の記事に寄せられたskr*h82*さんのコメントで知ったのだが、、
関谷BP、1970年代には既にほぼ出来てたんだな。。
しかし先述の通り、実際の開通は1993年。完成から開通まで、15年も間が開いていたのだ。
また関谷陸橋(BP本線)自体は72年には確認出来るので、着工~開通だと20年以上掛かっている。
そんなにのんびりしてたモンだから、、
ランプ路、草原になってるよ。。
これもskr*h82*さんのコメントで知った。
文明と自然が融合した瑞々しい舗装路。典型的な未成道路の雄姿(?)ですね。見せモンじゃねーぞ>402号
そしてこの忌々しき草原DNAは、接続先の312号(当時は市道)に受け継がれた。
「湘南の悲劇」とでも言うべき、負の連鎖ですね。まぁ厳密には、藤沢も鎌倉も「湘南」の範囲外だが。。
で、何故「関谷BP」の開通はこんなにも遅れたのか。まぁどうせそんな事だろうと思っていたが、、
横浜市の「職務怠慢」です。。
勿論、何か理由があっての事だと思うが、1988年時点で完全未着工。流石にビックリだわ。
実延長は鎌倉市飛び地区間を含め400m弱と短いとは言え、僅か数年で一気に開通させた事になる。
何故最初からそうしなかったのか、非常に気になる。国道1号との接続方法で国と揉めたのか、
お馴染みの「厄介ハウス」があったのか、或いはホントにやる気が無かっただけなのか――。。
因みに横浜市内は、実はまだ「半人前」。1号線を潜って上り線側に接続するランプ路が未開通なのだ。
この区間の1号線は寸胴4車線の為、右折レーンの無い影取町は上り線側からの右折禁止。
よって、上り線側(小田原→東京方面)から関谷BPに入る事は出来ず、「宝の持ち腐れ」状態だ。
この上り線用ランプ路が動く気配は無く、今後も長期間この状態が続きそうだ。
正直、こんな手の込んだランプは諦めて、1号線側の整備計画に基いた拡幅で右折レーン付ければ
事足りる様な気が。最もそれは国の管轄だから、市が直接どうこう出来る範疇に無いのだが。。
最後に、BPの関谷IC-影取町の様子を簡単に紹介して、このセクションを〆る。
県道312号を北上中。県道302号を潜り、藤沢市から鎌倉市に移ると間もなく、、
三井団地入口の直後、車線が行先別に分離。右車線は関谷ICのランプ路へ。勿論もう草は無い。。
左急カーブを描くランプ路を抜けると、、
そのまま本線の左車線へ。湘南型支柱のソトバが出迎えてくれる可も不可もない4車線道路だ。
因みに現道は一部1.5車線路。これは10年3月当時の画像なので、今は拡幅済みかも知れん。
BPは長い事ほったらかしておきながら現道はさっさと拡げちゃうのが横浜流、、なのかね。。
実質的には全く別の道路とは言え、BPと現道では雲泥の差がある402号なのであった。
さて、インターから続く坂を登り切ると、間もなく右車線が減少し、片側1車線に。
サミット付近は眺望に優れ、丹沢や富士山を一望出来る(富士山は撮り損ねたが)。
急坂を下り切ると、短い中道橋(滝の川)を挟んで横浜市へ。
真っ直ぐが1号上り線(東京方面)、右折が1号下り線(小田原方面)・・・のハズだが、
先述の通り上り線側は未開通なので、青看の通り、1号線への車は全車両がここを右折となる。
因みに402号側から1号線への流出には制約は無く、上下線どちらにも出られる。
結局、上り線側ランプの不在で困るのは、1号線側だけ・・・
なんて事は無く、402号側も渋滞と言う実害を被っている。
この日(13年1月)は昼間だったのでまだマシだが、酷い時は市境から横浜市内は全線渋滞、、なんて事もザラだ。まぁそれならそれで、市境手前の東正院で402号を乗り捨て、倍以上の遠回りにはなるが裏道を使い、ひとつ東側の影取歩道橋東側から出れば済む話だが。。
上り線側ランプ路、やっぱ欲しいかも。もし出来たら、下り線側の信号は廃止されるのかな?
次は地元の、地味だが重要な変化。
7月21日、厚木市の県道511号(太井上依知)の供用開始。いつから大井まで伸びたんだい。。
終点直前、依知神社裏手のプチバイパスが開通。
昭和橋及び、511号と一続きの相模川右岸堤防道路(市道)との直結が実現した。
痒いところに手が届いたようなバイパスだが、右折レーンが無い為日中は酷く混む。
言わずもがな、神社があって2車線取るのがやっとだったのだ。
開通が平成まで持ち越された事自体、神社の影響に他ならない(堤防道路は80年代前半に開通)
こんな具合に、交差点付近は川沿いから離せれば良かったのだが。
これなら508号、511号共に十分な右折レーンを付ける事が可能だが、用地取得が困難だろうな。。
なお旧道は、年度末の平成6(1994)年3月31日に格下げされ、市道になった。と言う訳で、、
ヤフーさん、間違ってますよ。。
次はあの路線の再登場。
8月24日、都道・県道501号瓜生相模原線(現57号+都156号)の認定の改正。
起点の住所が「町田市瓜生」から「多摩市永山7丁目」に改められた。
これは道路自体の経路変更ではなく、多摩ニュータウン開発の絡みで住所自体が改められた事に伴う(実動編の通り経路も変わったがこの一件とは無関係)変更だが、瓜生を含む旧小野路村の一部が町田市から多摩市に移ったの、1973年なんですけど。物凄く今更感がある。この告示から1年にも満たない94年4月には廃止されるとあれば尚更・・・もしや、廃止に備えた地均しの一環だったとか?
次はあるジャンルで非常に貴重だった旧国道。
10月15日、鎌倉市と藤沢市に跨る国道134号の「腰越旧道」が格下げされ、市道に。
あんまり気にしていなかったが、割と最近まで国道だったのね。
なお、新道(現道)の開通はだいぶ早く、1947-56年の間。多分「湘南道路」の開通と同じだろう。
この区間の特徴は、何と言っても江ノ電との併用軌道・・・なんだが、写真が無いorz
以前304号を走った時に撮ったつもりだったが、見てただけで撮ってなかった(たわけがッ
まぁ有名処なので、気になる方は「江ノ電 併用軌道」で画像検索してみて下され。
しかしこのカオス感、見れば見るほど神奈川っぽくない(笑)。往時はおにぎりとかあったんだろうか?
平成6(1994)年 .
4月1日、平成初(県道番号導入後初)の大規模路線改定(詳細はこちらをご参照ください)。
藤沢平塚線(47号)や相模原大蔵町線(57号)、平塚松田線(77号)など計10路線が認定された一方、
藤沢寒川線(405号)や瓜生相模原線(501号)、南金目中井線(702号)など計8路線が廃止された。
そんなビッグイヤーの一発目は、そのビッグイベントの当事者である受けた元不通県道。
7月12日、県道611号(大山板戸)の区域変更&供用開始。
4月1日に「大山上粕屋線」から「大山板戸線」に名称更された後、ようやく「真打」の登場となった。
開通したのは国道246号・県道63号(相模原大磯)との板戸交差点と東名ガード北側を結ぶ板戸バイパス(都・大句石倉線)区間。狭い2~1.5車線の旧道に変わる近代的な高規格2車線道路(16m)だ。
・・・それはそうと、旧道の延長、随分長くね?
新道より1㎞近く長いが、流石にそれはオカシ・・・あ、なるほどそう言う事か、、
旧道の距離(1.95㎞)には、新起点-旧終点間の距離(0.85㎞)が加わってるからだ。。
「大山板戸線」になったから、旧道も板戸まで伸びたと言う事だろうが、随分とまぁややこしい事を。
そもそも4月1日、大山板戸線の区域変更の告示なんて出てなかったが。。
何にせよ、起終点の変更を伴うバイパスが開通した際、旧道の県道指定が継続される場合は、
その起終点から新道の起終点までが旧道の区域に編入(追加)される、、と言う事だろう。
今後はこのややこしい法則を意識しながら読み解く必要のある告示が多数、登場する。
なお、バイパスの様子についてはこちらをご参照頂きたい。
因みに旧道は、3年後の平成9(1997)年11月28日に格下げされた。
謎の7mを残して。。
次は県内では珍しいトンネルを持つ停車場線の、待ちに待った慶事。
11月4日、県道307号(辻堂停車場羽鳥)及び県道308号(辻堂停車場辻堂)の区域変更及び供用開始。
辻堂駅東側で東海道線を潜る湘南辻堂地下道(トンネル)の開通である。
開通前と開通後の経路の比較図。
307・308号共に、北口に別々の新起点を持つ北口発着の路線に。南口発着の旧道の県道指定も維持された為両県道とも二重経路となったが、307号は踏切廃止に伴い線路の南側が孤立。旧道廃止までの一時的にだが「不通県道」となった。
そして現在。
307・308号とも起点が北側に移ると共に、重複は愚か接続すらしない「冷めた関係」になった。
308号を307号起点まで伸ばしても良かった気がするが、307号-308号間を北口再開発の一環で4車線の(都)辻堂駅遠藤線として整備したのが県では無く藤沢市だった為、そうならなかったのだろう。
かつて両県道の起点だった南口。
こちらも北口同様再開発で様変わりしているが、私にとっては一度訪ねるべき場所だろう(未訪)。。
因みに、南口発着の旧道の格下げは、2年後の平成8(1996)年4月1日である。
次は厄介農地が開通を拒むあのバイパスに絡んだ意外な真実。
11月18日、中井町の県道77号(平塚松田)の区域変更。「比奈窪バイパス」部分の追加である。
正直、この告示だけなら取り上げなかった。
最重要事項はバイパスの開通時期と旧道の格下げ時期だが、このバイパスはまだ未開通だ。
しかし、次に紹介する告示の「証人」と言うか「犯人」と言うか、とにかく関係者としてお鉢が回ってきた。
1週間後の25日、県道709号(中井羽根尾)の区域変更。
旧松田羽根尾線で、半年前の77号誕生の際に松田-中井間を「供出」し、現路線となったばかりだ。
そんな709号の起点(77号分岐)からの延長が、312mから・・・
32mに。。
なんですと!!つまりそれって・・・
こう言う事でないの!!
いやー、これは驚いた。ふたつの意味で驚いた。
まず、77号が既に、富士見橋三差路から比奈窪BPの起点まで「支線」として伸びている事、
そしてなにより、その支線区間が77号/709号重複区間では無く、77号の単独区間である事。
つまり709号の起点は、77号本線との分岐地点・富士見橋ではなく、今は「早くお退き看板」が立つだけの比奈窪BPの起点と言う事になる。BP開通後にこうなる事は重々承知していたが、まさか開通の遥か前(ホントはもっと早い開通を見込んでいたのだろうが)に既に実現していたとは夢にも思わなかった。
709号は人知れず、二度目の「供出」を既に終えていたのだった。
ただ、それが何故77号の区域変更と同時で無かったのかは素朴かつ大きな疑問だが。。
まとめ。709号の本当の起点は、、
富士見橋ではなく、、
そこから約300m進んだ「お退き看板」の少し先(厳密な位置はワカラン)だった。
このウソツキめッ!!
真面目に、嘘も方便とは正にこの事ですね。これ以外にどう案内しろと。。
今回の変遷を路線別にまとめると上図の通り(比奈窪BPの先行整備部の指定時期はワカランかった)。
11月18日から25日までの僅か1週間だけだが、77号と709号は重複していた。「一週間お試しセット」かッ
今回の編入区間が晴れて本線となる日は、まだ遠そうだ。。
平成7(1995)年 .
次は、相模川が(元)渓谷から平野に移る正にその場所に架る巨大橋。
1月10日、旧城山町の県道510号(長竹川尻)の区域変更。新小倉橋区間の追加である。
その新小倉橋を核とするバイパスの延長が現道の倍近くとやったら長いが、これも「あの法則」による。
宮原-山王神社裏間の現道(現在も現役)に対し、正味のバイパス区間と新旧連絡区間が追加された。
新道・旧道の起終点をひとつに集約するのが「平成流」なのは先例もあってよーく分かったんだが、、
この路線こそ、旧道をバイパスの実質終点(向原東側)まで伸ばした方が自然だったんじゃ・・・
終点の住所(大字)は「久保沢」なのに対し、BPの実質終点は「川尻(かわしり)」だから尚更である。
最も、長竹川尻線の「川尻」は旧川尻村(1955年から旧城山町)に由来する特例的な名称なので、
終点が旧川尻村の範囲内である限り、大字との整合性を気にする必要は無いのだろうが。。
ただ、2004年3月の新小倉橋開通の際に区域変更が告示され、
終点が山王神社裏から向原東側に移った可能性も無くは無いが、まぁその辺りもいずれ分かるだろう。
個人的な予想(半分妄想)だが、いずれ510号は川尻から橋本まで東伸され、
現道格下げの上「長竹橋本線」になるのではと思っている。
さて、どうなるやら。。
次は平成7年初の大フィーバー。
1月31日、主要地方道3路線の区域変更及び供用開始。①から順に見ていく。
スミマセン、のっけから既出ネタです。
①海老名市-厚木市間の県道43号(藤沢厚木)の区域変更。
全長に対する区域の追加なので、本線とは全く別の支線と言う事になる。具体的には、、
(都)社家岡田線の一部、相模大堰(取水堰)に併設された(仮)相模川橋部分である。
両側の破線部は都市計画決定済みだが県道としての区域決定は受けていない(当時。現状は不明)。
「全く別の支線」にも程があり、本線とは直結すらしていない。
見れば見るほど「何故43号なの?」と言う思いが膨らむばかりだ(開通すれば「法則」で繋がるハズだが)。
直結する県道46号(相模原茅ヶ崎)か県道601号(酒井金田)の支線が良かったんでないのと。
或いは開通後は、最寄りの県道408号(社家停車場)を再編した「社家岡田線」にでもなるのかも知れないが。その場合、最初からそうしないのは、開通前から路線名の変更が必要になるからだろう。。
まぁ46号・601号共にそれぞれ相模川の左岸・右岸に終始し、渡河交通には縁遠い。
一方、43号は相模大橋で海老名と厚木を結び、方角的にも符合する。
そんな共通項を拠り所に43号に白羽の矢が立った、、と言う事なのだろう。「餅は餅屋」と言う訳だ。
因みに社家岡田線、、
未だに出来ておりません。出来る気配もありません。やっぱあれか、、
小学校を突っ切る計画に無理があった?
と言うより、実際には例の如く用地取得でコケたようだが。
開通させる気があったから区域変更した訳で、何も無ければ今頃繋がってたんだろうな。勿体ね。。
因みに当告示、前回紹介時は時期を「今年」と言ったが実際にはここにある通り。失礼しました(_)
さて、次も既出ネタ。
前回も登場した、県道76号(山北藤野)の「最終更新」。
初期新起点・新鞠子橋から後期新起点(現終点)・向原分岐(信号ナシ)まで伸びた旨の告示だ。
現在は全線が76号だが、当時は同じく国道246号本線及び旧道(県管理部)との重複だった。
その為、この区間が県道として表記されるのは、2001年の山北BP(瀬戸地区)開通後の事だ。
これまで触れなかったが、地図上では「町道」となっているこの部分(249m)も76号に編入された。
町道から県道になった訳では無く、当時は246県管理部の一部だった(現在は76号単独)。
そんな隠れ県道的連絡路(写真は国道側分岐)だが、そもそも誕生の背景がよく分からん。
確かにこの道を使えば、東京側から旧道に入る際に新旧分岐地点(現起点)で右折する必要が無く、
特に安全性の向上に寄与しているが、一方で現起点での右折は禁止されておらず、殆どの車はここから旧道に入っている。安全性向上の為の連絡路と素直に考えるには、いささか説得力に欠けるのだ。
或いはBP開通当初は、現起点(写真)での右折が禁止され、旧道は連絡路(写真は分岐地点)からしか入れなかったのかも知れない。後に現起点での右折が解禁され、連絡路は唯一の入口では無くなった、、と言う可能性だ。これなら辻褄は合うが、真相は不明だ。
唯一確かな事は、道ヲタであれば、、
この連絡路を使って損は無い、、と言う事だ。。
この白看、まだご存命なのかな(写真は09年8月撮影)。
さて、次は通る度に気になって仕方が無かった、待望の告示。。
大井町の県道77号(平塚松田)の「山田バイパス」(八頭橋-上山田)の開通。
真横を通る東名(秦野中井-大井松田)の6車線化と同時期だろうなと思っていたが、それが証明された。
wikIによると、6車線化の完了(多分供用開始)は約3ヶ月後の4月22日だそうな。
ちとワカランのが、新道の延長。告示では「1711 メートル」とあるが、正味の延長は1.4㎞と300mも短い。
旧道も、同じく「2270 メートル」とあるが、正味は2㎞とやはり300mほど短い。
300mの新旧共通の現拡区間が、八頭橋側、上山田側のどちらか(多分後者)にあったのだろうか?
因みに旧道も、八頭橋側を中心に東名建設の際に付け替え道路として整備された新道だった。
つまり現在の77号は「三代目(平成新道)」と言う事になる。
そしてその三代目が初代にトドメを刺した事は、皮肉な運命の巡り合わせと言うほかない。
初代から二代目(昭和新道/現旧道)の切り替えの告示は未発見。いずれ見つけられればと思う。。
あ、ほんのちょこっとだけ残ってた(笑)。
次は前回も登場したあの不通県道。
12月22日、南足柄市の県道723号(関本小涌谷)で区域変更及び供用開始。
何やら区域が大量に増え、一見すると訳わかめだが、思い当たる節があったので悩まなかった。。
天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!!
そう、歩道(天狗の小径)の開通である。
杉並木とあじさいで有名な車道とは若干距離がある為、独立した区域として指定したのだろう。。
ネームシール等でひと目で県道と分かるこの歩道、人を車に変えればそのまま車道で使えそうな物々しい警戒標識の通り、滅茶苦茶滑る。ラバー舗装で歩き心地は良いんだが、目の細かさからコケとの相性も抜群。通行の際はくれぐれもスッテングコロリンしないよう要注意だ。早速犠牲者一名(自爆)。
因みに車道は、ある国家的イベントで舗装がピカピカになり走り心地は非常に良いが、、
たまーに木が倒れて来るので注意。。
天狗じゃ、天狗の(以下略
地図貼り忘れてた。この辺り一帯(仁王門前-最乗寺境内手前)です。
平成8(1996)年 .
3月19日、県道514号(宮ヶ瀬愛川)の供用開始。付け替え道路の全線開通の告示だ。
赤区間(起点-仮・県警グラウンド前)が開通。終点側から400mは92年1月に先行開通済みだった。
開通と同時に、地底・・・じゃ無かった水底に消えた旧道の廃止の告示も出た。
一番上の「4781m」が旧道(当時既に消滅)。最低敷地幅員2.1mって、車道とは思えん数値だな・・・
その下の「1750m」は多分工事用道路か何か。ダム工事の本格化後、514号は長い事不通だった。
で、1750mは消滅、4781mは旧終点から375mの盲腸県道(参考)として僅かに残った。
その旧道も、2年後の平成10(1998)年3月17日に廃止。
375mだった延長がいつの間にか約6倍の1855mに伸びた。言わずもがな、原因はあの「法則」だ。
「新起終点誕生の際、現役旧道の延長はそこまで伸びるの法則」により、旧道の延長に旧終点-新終点間の延長(約1.4㎞)が加わっていたのだ。また例によってそんな告示は出ていないが、恐らく無意識・・・いやいや自動的に延長される仕組みなのだろう。
そんな訳で514号(旧道方面)は、H8~10年の2年間だけ国道412号と重複していた。
恐らく誰にも気付かれぬまま「任期満了」となったこの暫定県道。従えた旧道は既に行先を失くした
「死にぞこない(失礼)」だっただけに、他の同じような暫定県道より悲運に思えるのであった。。
-続く- 11月2日 22時40分 公開